「あのころ、東京にいた」第三章 第四話【久世夫妻編】

昭和初期の東京を舞台にした創作小説です。

「あのころ、東京にいた」第三章 第四話【久世夫妻編】

 

昭和六年七月三十一日(金)

六時を少し過ぎても、空にはまだ明るさが残っていた。

静一郎は紗代子から渡された紙を見ながら、銀座西六丁目へ向かっていた。

西日の残る通りを、仕事を終えたらしい背広姿の男たちが流れていく。商店では早いところから灯を入れ始めていたが、電飾はまだ昼の明るさの中に浮いて見えた。

人の間を縫うように、若い女が小さな箱を配っていた。

静一郎の前にも一つ差し出された。

受け取ると、掌に収まるほどのマッチ箱だった。表には店の名と女の横顔が印刷されている。裏には銀座の住所があった。

先日、貞臣と見た店頭の看板や広告とはずいぶん大きさが違うが、これも人に店の名を覚えさせるためのものなのだろう。

静一郎がもう一度表を見ている間にも、女は次の男へ箱を差し出していた。受け取る者もいれば、手を上げるだけで通り過ぎる者もいる。

静一郎はマッチ箱を学生服の内側へしまい、再び歩き出した。

紙に書かれた番地は、表通りから一本入ったところにあった。

一階には小さな店があり、その脇に二階へ上がる階段がある。入口の横に細い札が出ていたが、店の名らしいものが書かれているだけで、紗代子から聞いた集まりについては何も書かれていなかった。

静一郎は紙と番地をもう一度見比べた。

間違ってはいない。

階段を上がると、二階の扉が開いていた。

中から話し声が聞こえる。

静一郎が入口に立つと、白い上着を着た若い男が近づいてきた。

「お連れさまでしょうか」

「久世さんに伺うよう言われているのですが」

「お名前は?」

「橘です」

男はすぐに頷いた。

「お聞きしています。どうぞ」

場所を間違えたわけではないらしい。

中へ入ると、思っていたより広い部屋だった。

壁際に長椅子があり、その前に低い卓が置かれている。反対側には小さな丸卓がいくつか並び、奥には飲み物を置く台があった。窓は開けられていたが、人の多さと煙草の煙で外より少し暑い。

すでに十五、六人ほどいた。

洋服の男もいれば、着物の男もいる。女も和装と洋装が半々ほどで、年齢も揃っていなかった。

画廊のように絵が並んでいるわけでもなく、何かの講演が始まる様子もない。

ただ、それぞれが好きな場所へ座って話していた。

「橘さん」

奥から紗代子が来た。

薄い色の洋服を着て、昼間に会うときより少し濃い口紅を引いていた。

「いらしたのね」

「こんばんは」

「ちゃんと分かった?」

「住所がありましたので」

紗代子は笑った。

「そうね。あなたに道順まで書く必要はなかったわね」

「貞臣はあちらよ」

視線の先を見ると、貞臣は窓際で三人の男と話していた。

昼間の仕事先で見るときと同じ夏の背広姿だったが、上着は脱いで椅子の背へ掛けている。静一郎に気づくと、話を切ってこちらへ来た。

「来たんだね」

「はい」

「迷わなかった?」

「大丈夫でした」

「それならよかった」

貞臣は近くを通った男へ声をかけ、静一郎の分の椅子を一つ空けてもらった。

「何か飲む?」

卓には珈琲のほか、硝子杯に入った酒や色のついた飲み物が並んでいる。

「珈琲をお願いします」

「お酒でもいいのに」

紗代子が言った。

「飲めないわけではありませんが」

「では、どうして?」

「今は珈琲の方がいいので」

「そう」

紗代子はそれ以上勧めなかった。

珈琲が運ばれてくるまでの間に、貞臣は近くにいた何人かを紹介した。

画家が二人、雑誌へ文章を書いている男が一人、銀座で洋品店を営んでいるという女が一人。そのほかにも名前と仕事を聞いたが、一度には覚えきれなかった。

「こちら、橘君。帝大の学生です」

貞臣が言うと、眼鏡をかけた男が静一郎の学生服を見た。

「法学部?」

「はい」

「久世さんが帝大生を連れてくるなんて珍しいね」

「連れてきたのは紗代子だよ」

「私は住所をお渡ししただけよ」

紗代子が言った。

「いらしたのは橘さん」

静一郎は二人を見たが、その通りなので何も言わなかった。

男が笑った。

「なるほど。そういうことにしておこう」

しばらくすると、別の男が貞臣へ声をかけた。

「久世さん、あの店、見ましたよ」

「どの店です?」

「西五丁目の。帽子を一つだけ出しているところ」

「ああ」

「ずいぶん減らしたね。前は窓いっぱいだったでしょう」

「多すぎたので」

「店主はよく承知したな」

「最初は嫌がりましたよ」

男が笑った。

「でしょうね」

そこへ紗代子が口を挟んだ。

「でも日曜は、ちゃんと売れていたわ」

「もう見に行ったの?」

「日曜に」

「仕事熱心だねえ」

「見るのは面白いもの」

話はそのまま、銀座の別の店の看板へ移った。

静一郎は珈琲を飲みながら聞いていた。

知らない店の名前が次々に出たが、話そのものは分からなくもなかった。どの看板が見づらい、どの店は入口を変えてから客が増えた、新聞広告の文字が多すぎる。七月に貞臣たちと見たものと似た話もある。

やがて、その中の一人が静一郎へ向いた。

「君も久世さんの仕事を手伝っているの?」

「いいえ」

「じゃあ、どういう知り合い?」

静一郎は少し考えた。

どういう、と言われると説明しにくい。

「仕事で伺っているお宅で知り合いました」

「それだけ?」

「最初は」

男が貞臣を見た。

「最初は、だそうですよ」

「そう聞かれても困るよ」

貞臣は笑っていた。

紗代子が静一郎の横へ座った。

「橘さん、どう?」

「何がですか」

「ここ」

静一郎は部屋を見た。

来たときより人が増えている。

入口近くでは、先ほどまでいなかった女が男二人と立って話していた。窓際では別の一団が椅子を寄せ、何かの本を回している。奥では笑い声が上がり、そのすぐ横では二人だけで顔を近づけて話していた。

「思っていたより、普通です」

紗代子が目を丸くしたあと、笑った。

「何だと思っていらしたの?」

「分かりませんでしたから」

「そうだったわね」

紗代子は卓の上に両手を重ねた。

「まだ来たばかりよ」

「はい」

そのあと、貞臣はまた別の人間に呼ばれた。

紗代子も知り合いの女から声をかけられ、少し離れた卓へ行った。

静一郎は一人になった。

珈琲はまだ半分ほど残っているし、誰かと話さなければならない場所でもないらしい。

しばらく人を見ていると、いくつか分かってきた。

貞臣は思っていた以上に顔が広かった。

部屋へ新しい人間が入ってくるたび、かなりの割合で声をかけられる。仕事の話もあれば、展覧会の話もあり、中にはただ肩を叩いて通り過ぎる者もいる。

紗代子も同じだった。

ただ、貞臣とは少し違った。

男も女も、紗代子には話を聞かせに来る者が多い。

新しく買った帽子を見せる女がいて、誰かと喧嘩した話をする男がいる。紗代子は笑ったり、短く答えたりしながら聞いている。

七月五日の画廊でも、貞臣は物を見て、紗代子は人を見ていた。

ここでも同じらしかった。

「君、学生?」

不意に声をかけられた。

顔を上げると、三十歳前後の男が立っていた。

先ほど紹介された男ではない。

細い縞の背広を着て、片手に酒の入った硝子杯を持っている。

「はい」

「帝大?」

「そうです」

男は静一郎の向かいへ腰を下ろした。

「久世さんの知り合い?」

「はい」

「へえ」

男はそう言って、静一郎の顔を見た。

質問の続きがあるのかと思ったが、すぐには何も言わなかった。

静一郎も待った。

やがて男が笑った。

「君、ずいぶん真面目に人の顔を見るね」

「お話が続くのかと思いましたので」

一拍置いて、男が声を立てて笑った。

「なるほど。久世さんが連れてくるわけだ」

静一郎は返事をしなかった。

今度は、何を意味しているのか分からなかった。

男は硝子杯を卓へ置いた。

「名前は?」

「橘です」

「名の方は?」

「静一郎です」

「静一郎君か」

「私は杉浦。雑誌の仕事をしている」

「そうですか」

「文章は読む?」

「読みます」

「何を?」

静一郎が最近読んだものを二、三挙げると、杉浦は意外そうに眉を上げた。

「ずいぶん堅いな」

「法学部ですので」

「小説は?」

「読みます」

「よかった。法律の本しか読まないのかと思った」

しばらく話しているうちに、杉浦の知っている作家の名前がいくつか出た。そのうち一人については静一郎も作品を読んでいたので、話は思ったより続いた。

杉浦は酒を飲みながらよく話した。

雑誌社の編集者が原稿を落とした話、締切を守らない作家の話、書いた本人より周囲の方が題を気に入っている話。静一郎には知らない世界だったが、人の名前と関係が分かってくると面白かった。

途中で、別の男が卓へ加わった。

「何を捕まえたんだ」

「帝大生」

「それは見れば分かる」

男は静一郎の学生服を一度見てから、襟の章へ目をやった。

「法学部?」

「はい」

「やっぱり真面目そうだな」

また同じようなことを言われた。

静一郎は返事をせず、珈琲へ手を伸ばした。

杉浦たちと話しているうちに、窓の外は暗くなっていた。

開け放した窓の向こうに、表通りの電飾が見える。部屋の中でも卓上の灯が目立つようになり、来たときより煙草の煙が白く見えた。

人もさらに増えていた。

椅子の足りない卓では何人かが立ったまま話し、壁際では女が男の肩へ手を置いて笑っている。別の卓では、男同士が一冊の雑誌を挟んで何か言い争っていたが、険悪というほどでもなかった。

杉浦が静一郎の空になったカップを見た。

「もう一杯頼む?」

「いえ、結構です」

「酒は?」

「今は要りません」

「少しくらい飲んだ方が面白いよ」

静一郎は杉浦を見た。

「今は珈琲で十分です」

杉浦が笑った。

「君、本当に真面目だな」

そう言ってからも、しばらく静一郎の顔を見ていた。

「でも、きれいな顔をしているね」

静一郎は返事をしなかった。

容姿について何か言われること自体は初めてではない。母親に似ていると言われたこともあった。

ただ、この男が何のためにそれを言ったのかは分からなかった。

「褒めてるんだよ」

杉浦は笑った。

その視線が一度、静一郎の顔から首もとへ落ち、また戻った。

「久世さん、面白いのを見つけたな」

また同じ言い方だった。

静一郎は貞臣の方を見た。

部屋の反対側で、貞臣は画家らしい男と話している。こちらを見てはいない。

紗代子は少し離れたところで女二人と話していた。

杉浦が言った。

「このあと暇?」

静一郎は向き直った。

「このあとですか」

「そう。ここもそろそろ飽きただろう」

「まだ特には」

「じゃあ、もう少しいたらいい。あとで別のところへ行こう」

「どこへですか」

「近くだよ」

「何をしに?」

隣の男が思わず笑った。

杉浦も笑ったが、今度は少し困ったようだった。

「飲みに行くんだよ」

「ここでも飲めますが」

「二人で、という意味」

隣の男が吹き出した。

「駄目だよ。全然伝わってないじゃないか」

杉浦が男を睨んだ。

「黙ってろ」

杉浦はそう言って、椅子を少し静一郎の方へ向けた。

その視線に、先ほどまでとは少し違うものが混じっているように思えた。

「君ともう少し話したいから」

「ここでは駄目なんですか」

「駄目じゃないけどね」

杉浦は静一郎から目をそらさないまま言った。

「人が多いだろう」

それはその通りだった。

しかし、二人になる必要があるのかは、まだよく分からなかった。

「今日は久世さんたちに伺うよう言われて来ましたので」

「帰るときに声をかければいいじゃないか」

話が少しずつ、自分の返事を待たずに先へ進められているように思えた。

静一郎は答えなかった。

杉浦がさらに何か言おうとしたとき、横から女の声がした。

「その子、困ってるじゃない」

低く、少し掠れた声だった。

三人が顔を上げた。

女が立っていた。

黒に近い色の着物を着ている。髪はきちんと結っているが、紗代子ほど隙のない装いではなかった。

静一郎より少し年上に見えた。

目の下に、小さな黒子が一つあった。

杉浦が笑った。

「困ってないよ。なあ?」

静一郎は答えなかった。

女は一度、静一郎を見てから杉浦へ向き直った。

「ほら」

「何が、ほら、なんだ」

「分かってない子を連れていこうとしてるんでしょう」

「子って歳じゃないだろう」

「じゃあ、本人に分かるように言えば?」

隣にいた男が笑いながら立ち上がった。

「俺は知らないよ。蘭子に目をつけられたなら」

「あなたは黙ってなさい」

蘭子と呼ばれた女は、空いた椅子の背へ手を置いた。

杉浦は面倒そうに硝子杯を持ち上げた。

「別に無理に連れていくわけじゃない」

「だったら、本人に聞けばいいでしょう」

「まだ嫌だとは言ってないよ」

蘭子が静一郎を見た。

「行きたいの?」

今度の問いは分かりやすかった。

「いいえ」

蘭子は杉浦へ目を戻した。

「ほら」

杉浦が静一郎を見た。

「行きたくない?」

静一郎は少し間を置いた。

「……はい」

杉浦は笑った。

「じゃあ仕方ない」

思っていたよりあっさり引いた。

硝子杯を持って立ち上がった。

「気が変わったら言ってよ」

静一郎は返事をしなかった。

杉浦はそのまま別の卓へ行った。

蘭子はその後ろ姿を見送ってから、静一郎の向かいへ座った。

「あなた、男にああいう誘われ方するの、初めて?」

静一郎は蘭子を見た。

「ああいう、とは」

蘭子はしばらく静一郎の顔を見た。

「ああ。そこからなのね」

「どういう意味でしょう」

「今の人、ただ飲みに行きたかったわけじゃないのよ」

静一郎は少し黙った。

先ほどの視線を思い出した。

「二人で行きたいとは言っていました」

「そうでしょう」

「ですが、なぜ私なのかは分かりません」

蘭子が顔を上げた。

しばらくして、声を立てて笑った。

先ほどの男たちとは違う笑い方だった。

「久世さんたち、ずいぶんな子を連れてきたわね」

またそれだった。

静一郎は眉を寄せた。

「どういう意味なんですか」

蘭子はすぐには答えなかった。

小さな煙草入れを出し、一本抜いて火をつけた。

一度吸ってから、静一郎を見た。

「あなた、きれいだからよ」

静一郎は黙った。

「さっきも言われたでしょう」

「はい」

「でも、何のために言われたのか分からなかった?」

静一郎は少し考えた。

「分かりませんでした」

蘭子は煙を吐いた。

「綺麗だと言われたからって、褒められたと思っちゃ駄目。何が欲しくて言ってるのか、ちゃんと見なさい」

少し離れたところで笑い声が上がった。

蘭子はそちらへ目を向け、それから煙草を灰皿へ押しつけた。

「ここにいる人がみんな悪いわけじゃないわよ」

「そうは思っていません」

「そうね」

蘭子は静一郎の学生服を一度見た。

「でも、知らない人について行っちゃ駄目」

「行くとは言っていません」

「ええ。そこはちゃんとしてた」

静一郎は卓の上に置いた手を見た。

「ただ、途中まで意味が分かりませんでした」

「それも分かったわ」

蘭子は立ち上がった。

「少し外へ出ない?」

静一郎は顔を上げた。

「外へ?」

「今度は変な意味じゃないわよ」

静一郎は蘭子を見た。

蘭子もこちらを見ている。

「久世さんたちには、あたしから言うから」

「ですが」

「ここ、暑いでしょう。ちょっと歩くだけ」

静一郎は窓の方を見た。

外はもうすっかり暗くなっていた。

昼の明るさの中で見た電飾が、今は通りを照らしていた。

「……分かりました」

静一郎は立ち上がった。

最後までい読みいただき、ありがとうございました。

Thank you for reading to the end.

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