「あのころ、東京にいた」第三章 第二話【久世夫妻編】

昭和初期の東京を舞台にした創作小説です。

「あのころ、東京にいた」第三章 第二話【久世夫妻編】

 

昭和六年七月十二日(日)

「今日は、何時までなさるの?」

声をかけられて顔を上げると、紗代子が書庫の入口に立っていた。

静一郎は机の上の時計を見た。三時を少し過ぎている。

「五時頃までのつもりです」

「では、四時でおしまいになさい」

「なぜですか」

「展覧会を見に行きましょう」

静一郎は手にしていた本を閉じた。

「先週、見ました」

「先週は人がいなかったでしょう」

紗代子は当然のように言った。

「今日はいるわ」

静一郎が答えずにいると、客間の方から瑠璃子の声がした。

「行っていらっしゃいな。こちらは来週でも逃げませんよ」

「三枝さんまで」

「本は逃げないって、前にも言ったでしょう」

静一郎は机の上を見た。いま調べている棚は、あと十冊ほどで終わる。それを済ませれば区切りはつく。

「四時までは続けます」

紗代子が笑った。

「ええ。そうおっしゃると思ったわ」

四時十分ほど前に最後の一冊を書き終えた。

静一郎が紙を重ねていると、紗代子がまた書庫へ来た。

「終わった?」

「この棚は」

「では行きましょう」

四時になると、静一郎は仕事道具を片づけ、紗代子と玄関を出た。門前に待たせてあった自動車で、そのまま銀座へ向かった。

*

先週とは違い、白鷺画廊の入口には人がいた。

壁も絵の並びも先週とほとんど変わらないのに、静一郎には別の部屋のように見えた。

「ずいぶん違うでしょう」

紗代子が言った。

静一郎はもう一度、展示室を見た。

「人がいるからですか」

「ええ。先週は絵しかなかったでしょう」

紗代子は入口の横へ寄った。

静一郎もそこから中を見た。

一人で来た男が、最初の壁をほとんど見ずに奥へ進んでいく。その後から入ってきた二人連れは、入口に近い風景画の前で立ち止まった。少し話したあと、片方が先へ行き、もう一人もそれについていった。

先週、人物画を動かすかどうか話していた壁にも客がいた。

「あれ」

紗代子が言った。

「覚えている?」

「人物画ですか」

「ええ」

人物画の前には女が一人立っていた。その横を通り過ぎた男が、数歩行ってから戻ってくる。

「入口へ持ってこなくてよかったでしょう」

静一郎は、戻ってきた男を見た。

「……先週おっしゃっていたことですか」

「そう」

背後から声がした。

「まだ言っているのか」

振り返ると、貞臣が立っていた。

今日は上着を着ている。先週のように袖を折り返して働いていたときとは違い、客に挨拶をしたり、画廊の主人と話したりしているらしかった。

「だって、よかったでしょう?」

「よかったよ」

貞臣はそう答えてから静一郎を見た。

「来たんだね」

「はい」

「紗代子に連れてこられたのか?」

静一郎が紗代子を見ると、紗代子は笑っている。

「そうとも言えます」

「橘さん、私が無理に連れてきたみたい」

「行かないとは申し上げませんでした」

紗代子が吹き出した。

貞臣も笑ったが、そのまま入口の方へ目を向けた。

「どう?」

また同じことを聞かれた。

静一郎はすぐには答えず、しばらく人の流れを見た。

入口から入った客の多くは、最初に正面の壁を見る。そのあと右へ行く者と、まっすぐ奥へ進む者に分かれている。先週一枚減らした壁の前では、立ち止まる者がほかより少し多い。

「先週より、狭く見えます」

「人がいるから?」

「それもあります。でも、みんな似たところで止まるので」

貞臣も入口から中を見た。

「絵を見るために立つ場所がだいたい同じです。そうすると、通る場所も限られます。先週は壁だけ見ていたので、そこまでは分かりませんでした」

「なるほど」

貞臣はしばらく客を見た。

「そこを見るんだね」

「今日はそのために来たのだと思っていました」

貞臣が静一郎を見た。

紗代子が隣で笑った。

「違いましたか」

静一郎が聞くと、貞臣は首を振った。

「いや。聞こうと思っていた」

「では、合っていますね」

紗代子はまだ笑っていた。

そのとき、画廊の主人が貞臣を呼んだ。

「失礼」

貞臣は奥へ行った。

静一郎はそのあとも何枚かの絵を見た。先週、場所を移された風景画も見たが、今度は絵そのものだけでなく、その前に誰がどれほど立っているかまで目に入った。

しばらくして貞臣が戻ってきた。

「奥でお茶を入れてくれるそうだ。君もどう?」

静一郎は時計を見た。

五時を少し回っている。

「少しなら」

「少しですって」

紗代子が言った。

「何かおかしいですか」

「いいえ。今日はずいぶん素直だと思って」

画廊の奥には、小さな応接室があった。

丸い卓を囲んで三人が座ると、女が紅茶を運んできた。表の客の声は聞こえるが、絵は一枚も見えない。

紗代子が砂糖を一つ入れながら言った。

「橘さんは、東京へいらしてまだ三月みつきくらい?」

「三月の末に来ましたから、そのくらいです」

「もう慣れた?」

静一郎は少し考えた。

「大学までの道なら」

「それは慣れたとは言わないわ」

「必要なところへ行ければ困りません」

「銀座へも来られたじゃない」

「場所を教えていただきましたので」

貞臣が紅茶を飲みながら二人を見ていた。

「紗代子から、もっと無口だと聞いていた」

静一郎は紗代子を見た。

「無口だとは言っていないわ。余計なことをおっしゃらない方だと」

「同じじゃないか」

貞臣が言った。

「違うわよ。無口な人でも余計なことを言う人はいるもの」

「それはそうだな」

静一郎は二人を見た。

紗代子はカップを置いた。

「面白い方だとは言ったわ」

そう言って、今度は貞臣に今日の客入りについて尋ねた。

話はすぐに展覧会へ戻った。

新聞を見て来た客が多いこと、午後より午前の方が混んでいたこと、入口に置いた案内の位置を明日は少し変えること。貞臣が話すと、紗代子がときどき意見を挟んだ。

静一郎も尋ねられれば答えた。

二杯目の紅茶を勧められたときは断った。

「そろそろ帰ります」

時計は六時に近かった。

「少し、だったものね」

紗代子が言った。

静一郎は立ち上がった。

「十分いただきました」

貞臣も席を立った。

「今日はありがとう」

「こちらこそ、ごちそうさまでした」

二人に頭を下げ、静一郎は応接室を出た。

表の展示室には、まだ何人か客が残っていた。

*

昭和六年七月十九日(日)

午後、瑠璃子が書庫へ入ってきた。

「静一郎さん、このあたりに図案の本はなかったかしら」

静一郎は手を止めた。

「図案ですか」

「ええ。外国のものだったと思うのだけれど」

それだけでは分からなかった。

「大きさは」

「かなり大きかったわ。横文字で、絵がたくさん載っていたと思います」

静一郎は机の上の記録をめくった。図案、美術、建築の類は一つの棚にまとまっておらず、亡夫が読んでいた時期によって置き場所も違っている。

「何にお使いになるんですか」

「私ではないの。久世さんがお探しなのよ」

静一郎が顔を上げた。

「いらしているんですか」

「ええ。いま客間に」

記録をもう何枚か戻ったところで、それらしいものがあった。独逸語の書名で、図版の多い大判本。棚の番号も書いてある。

静一郎は立ち上がり、奥の棚から本を抜いた。

「これでしょうか」

「たぶん。持ってきてくださる?」

静一郎は本を抱えて客間へ行った。

貞臣は長椅子ではなく、窓際の椅子に座っていた。今日は紗代子の姿はない。薄い夏の背広を着て、卓上に置かれた新聞を見ていた。

静一郎に気づくと、新聞を畳んだ。

「こんにちは」

「こんにちは」

静一郎は瑠璃子へ本を渡した。

「こちらだと思います」

貞臣が表紙を見た。

「ああ、これです」

「よく見つけたわね」

瑠璃子が言った。

「記録してありましたから」

「久世さん、この人、何がどこにあるか全部書いているのよ」

「全部?」

「全部ではありません。まだ終わっていませんので」

貞臣が笑った。

「そういう意味じゃないよ」

瑠璃子は本を貞臣へ渡した。

「ご覧になって。私はお茶をお願いしてきますから」

そう言って客間を出ていった。

貞臣は本を膝に置き、何頁かめくった。商店の内部や看板、印刷物らしい図版が並んでいる。

「独逸語だったのか」

「そうですね」

「君は読めるんだったね」

「少しなら」

貞臣は開いた頁を静一郎へ向けた。

「これは何と書いてある?」

静一郎は立ったまま頁を見た。写真の下に二行ほど説明がある。

「店の正面と、窓の陳列についてです」

「そのまま読める?」

静一郎は一度文章を目で追った。

「直訳でよければ」

「それでいい」

静一郎が読み下していくと、貞臣は図版と文章を交互に見た。

「なるほど」

頁を一枚めくった。

今度は印刷された広告がいくつか載っていた。

「これは?」

「文字の配置についてだと思います」

「思います?」

「知らない単語があります」

「分からないものは分からないと言うんだね」

静一郎は貞臣を見た。

「分からないので」

貞臣が口元を緩め、もう一度頁へ目を落とした。

「こういう本も読む?」

「いいえ」

「美術だから?」

「必要がないからです」

「興味もない?」

静一郎は少し考えた。

「全くないわけではありません」

貞臣が顔を上げた。

「先週はずいぶん見ていたじゃないか」

「あれは、見ている人がいたからです」

「絵だけなら?」

「何を見ればいいのか分かりませんので」

貞臣はしばらく静一郎を見たあと、声を立てずに笑った。

そのうち瑠璃子が女中と一緒に戻り、卓へ茶が置かれた。

「静一郎さんも休んだら?」

「まだ途中です」

「またそれ?」

瑠璃子が呆れたように言った。

貞臣が本を閉じた。

「仕事の途中なら、戻った方がいい」

静一郎は貞臣を見た。

「では、失礼します」

頭を下げて書庫へ戻ろうとしたところで、後ろから呼ばれた。

「橘君」

振り返ると、貞臣は閉じた本の表紙へ手を置いていた。

「ありがとう。助かった」

「いいえ」

静一郎は頭を下げた。

「失礼します」

書庫へ戻ると、途中まで開いていた本が机の上に残っていた。

静一郎は椅子へ座り、先ほどの続きから記録を始めた。

最後までい読みいただき、ありがとうございました。

Thank you for reading to the end.

タイトルとURLをコピーしました