昭和初期の東京を舞台にした創作小説です。
「あのころ、東京にいた」第二章 第四話【瑠璃子編】
昭和六年五月三十一日(日)
五月最後の日曜日、静一郎はいつもの机で、前の週に残した本から仕事を始めていた。
瑠璃子が茶を持って書庫へ入ったのは、午前の仕事がひと区切りした頃だった。湯呑を机の端へ置き、向かいの椅子には座らず、そのまま声をかける。
「橘さん、今日、仕事が終わってから少しお時間ある?」
静一郎は目録帳から顔を上げた。
「はい。何でしょうか」
「眼鏡を見に行きませんか」
静一郎は手にしていた鉛筆を置いた。
「……私のですか?」
「ええ。先週の『だいたい』が、どうも気になって」
「今のところ、特に困ってはいません」
「でも、大学ではいつも前の席が空いているとは限らないでしょう。ここでも細かい字を読んでいただくことが多いし」
静一郎は机の上の本へ目を落とした。
「それは、そうですが」
「眼鏡屋なら、心当たりがあるの。主人が使っていた店だから」
「そうなんですか」
「ええ。仕事が終わったら、一緒に行きましょう」
「眼鏡代は、私が払います」
瑠璃子はすぐに首を振った。
「いいの。仕事で使うものですから」
「ですが、仕事が終われば私のものになりますので」
瑠璃子は湯呑の位置を少し直した。
「……そうね。では、仕事のためということにするのは、やめましょうか」
「はい?」
「私が作って差し上げたいの」
静一郎は少し黙った。
「……ですが、眼鏡は安いものではありません」
「ええ。分かっているわ」
「それでも、よろしいんですか」
「ええ、それでも。だめ?」
静一郎は少し考えてから、頭を下げた。
「……では、お言葉に甘えます。ありがとうございます」
「ええ」
話が済むと、静一郎は冷めないうちに茶を飲み、また本を開いた。瑠璃子もそのまま書庫を出た。
その日は午後の仕事を少し早く切り上げ、二人で京橋の眼鏡店へ向かった。
店の者が静一郎の目を調べ、度の違うレンズを何度か替えた。初めのうちは聞かれたことに答えているだけだった静一郎が、あるレンズを入れたところで、店の外へ目を向けた。
「どうですか」
「……向こうの字まで読めます」
瑠璃子も振り返った。通りの向こう側に看板が出ている。
静一郎はそのまま外を見ていた。通りを歩く人の顔や、軒先の文字を順に確かめている。
枠は、店の者が掛け具合を見ながらいくつか選んだ。細い金属枠を順に掛けても、静一郎は鏡を一度見るだけで、これといって好みを言わなかった。
「どれになさいますか」
「どれでも構いません」
「どれでも、では困るでしょう」
瑠璃子が言うと、静一郎はもう一度、並べられた眼鏡を見た。
店の者が二つに絞り、それぞれ掛け具合を確かめる。瑠璃子はそのうちの一つを指した。
「こちらの方が軽そうね」
「こちらなら、長く掛けても楽だと思いますし、よくお似合いですよ」
静一郎は鏡を見たあと、瑠璃子の方を見た。
瑠璃子は眼鏡を掛けた顔を見た。
「どう? 掛け心地は」
「特に違和感はありません」
瑠璃子は店の者へ顔を向けた。
「では、それでお願いします」
店の者は眼鏡を静一郎から受け取った。
細い丸型の金属枠だった。
*
六月七日(日)
次の日曜日、二人は出来上がった眼鏡を受け取るため、京橋の店へ行った。
出来上がった眼鏡を受け取ると、静一郎は店の者に教えられた通り、両手でつるを持って掛けた。鼻の位置と耳の掛かりを直してもらい、顔を上げる。
「いかがですか」
静一郎は店の中を見渡してから、表へ顔を向けた。
「よく見えます」
先週見ていた看板へ目を向け、その先の軒先の文字まで順に見ていった。
店の者が眼鏡の扱い方を説明しているあいだ、瑠璃子は隣で静一郎の横顔を見ていた。
やがて静一郎が瑠璃子の方を向いた。
「何か変ですか」
瑠璃子が返事をするまでに、少し間があった。
「……いいえ」
「そうですか」
「よく見える?」
「はい」
三枝家へ戻ると、静一郎は眼鏡を掛けたまま目録帳を開いた。
仕事を始めると、これまでとは少し勝手が違った。棚の背文字は離れたところからでも読め、頁の端にある細かな書き込みも、本を顔の近くまで持ち上げなくてよかった。
昼を挟んで何冊か進んだ頃、静一郎が一冊の本を開いたまま瑠璃子を呼んだ。
「三枝さん、こちらにもあります」
瑠璃子は机のそばへ行った。
「どこ?」
「ここです」
静一郎が頁の端を指した。
夫の字だった。
「前に出てきたものと、同じ年に書かれたものだと思います。筆記具も同じですし、内容も続いています」
「大正七年の?」
「はい。十二月頃です」
瑠璃子は頁へ目を落とした。
静一郎はその先を二、三行追ったところで、指を止めた。
「……三枝さん」
「なに?」
静一郎は本を瑠璃子の方へ向けた。
「これは、本文とは関係がないようです」
瑠璃子は示されたところを見た。
欄外に、ほかの書き込みより少し小さな字で、一行だけあった。
妻には、何の落度もない。
すぐ下には、また法律書についての書き込みが続いていた。
瑠璃子はその一行をもう一度読んだ。
「……そう」
静一郎は目録帳へ目を戻していた。
「これは、記録しなくてもいい?」
「はい。蔵書の目録には必要ないと思います」
「そうね」
瑠璃子は本を閉じた。
静一郎が次の本を開くと、瑠璃子はその本だけを確認の終わった本の山へ戻さず、机の端に置いた。
最後までい読みいただき、ありがとうございました。
Thank you for reading to the end.