昭和初期の東京を舞台にした創作小説です。
「あのころ、東京にいた」第二章 第六話【瑠璃子編】
昭和六年六月二十一日(日)
静一郎が来る前に、瑠璃子は一冊の本を書庫へ持ってきていた。
夫が何か書き込んでいた本だった。
あとで見せようと思い、机の端へ置いておく。
やがて静一郎が来て、いつものように蔵書整理を始めた。
眼鏡を掛けた顔にも、もうすっかり見慣れていた。
目を細めて本を読むこともなくなった。
静一郎は一冊ずつ本を取り出し、奥付を確認し、ノートへ書きつけていった。
瑠璃子は少し離れたところで、それを眺めていた。
「その上も見るの?」
棚の上段を見上げている静一郎に尋ねた。
「はい。右端の何冊かが、まだ確認できていません」
「届く?」
静一郎は瑠璃子を見た。
「届くと思います」
立ち上がり、棚の前へ行く。
瑠璃子も何となくそのあとについて行った。
静一郎が腕を伸ばした。
一番上の棚から、本を一冊抜き取る。
瑠璃子は少し顔を上げた。
座っているところを見ている時間の方が長かったせいか、立つとこんなに背が高かったのかと思った。
静一郎が本を引き出すために半歩下がる。
瑠璃子も半歩退いた。
「すみません」
「いいのよ」
静一郎は本を持って机へ戻った。
瑠璃子も元の椅子に腰を下ろした。
静一郎は何も気にした様子もなく、本へ目を落としていた。
瑠璃子はその横顔をしばらく見ていた。
「橘さんって、ご自分のことはあまり話さないのね」
静一郎が本から顔を上げた。
「そうでしょうか」
「そうよ。私が聞けば答えてくれるけれど、自分からはほとんど話さないでしょう」
静一郎は少し考えた。
「はい。そうかもしれません」
「どうして?」
「聞かれなければ、相手が知りたいかどうか分かりませんから」
瑠璃子は笑った。
「本当にそのまま答えるのね」
静一郎は黙っている。
「じゃあ、私が何も聞かなかったら、橘さんのことは何も分からないのね」
静一郎は少し考えた。
「聞かなければ分からないことは、あると思います」
「じゃあ、知りたければ聞かなくちゃいけないのね」
「はい」
「何でも聞いていい?」
「答えられることでしたら」
瑠璃子は少し目を細めた。
「そうよね」
静一郎は再び本へ目を落とした。
それから、瑠璃子は不意に言った。
「主人も……あまり話さない人だったわ」
口にしてから、何かが引っかかった。
夫が食卓で話していた姿が浮かんだ。
仕事先であったこと。
新聞の記事。
知人の噂。
娘の学校のこと。
思い返してみれば、夫はよく話す人だった。
瑠璃子は眉を寄せた。
「……違うわね」
静一郎が顔を上げた。
「主人は、よく話す人だったわ」
「そうですか」
「ええ」
瑠璃子は少し考えた。
「今、どうして反対のことを言ったのかしら」
静一郎は何も言わなかった。
答えを求められていないと思ったのだろう。
瑠璃子も、そのまま黙った。
夫はよく話した。
話さなかったのは、瑠璃子がいちばん聞きたかったことだけだった。
机の上で、静一郎が頁をめくった。
「橘さん」
「はい」
「私、あなたにいろいろ聞きすぎている?」
静一郎は少し考えた。
「困ることは聞かれていません」
「困ることを聞いたら?」
「そのときは、答えられませんと言います」
迷いのない返事だった。
瑠璃子は声を立てずに笑った。
「そうね。あなたなら、そうするでしょうね」
静一郎はそれ以上何も言わず、また仕事へ戻った。
そのあとも、二人は時々言葉を交わした。
蔵書のことではない話もした。
瑠璃子が聞き、静一郎が答える。
静一郎から話を広げることはほとんどなかったが、聞いたことにはきちんと答えた。
答えられないことなら、きっと本当にそう言うのだろう。
それも瑠璃子は嫌ではなかった。
それからも何冊か確認するうちに、窓から差す光が傾いてきた。
静一郎はノートを閉じた。
「今日はここまでにします」
「ええ」
静一郎は机の上を整え、鞄へ筆記具をしまった。
「では、来週も同じ時刻に伺います」
「ええ。お願いね」
静一郎は頭を下げ、書庫を出ていった。
瑠璃子はそのあともしばらく書庫にいた。
机の上を見ていて、一冊の本に気づいた。
朝、自分で持ってきた本だった。
夫の書き込みを、静一郎に見せるつもりだった。
瑠璃子は本を手に取った。
今日は、とうとう一度も開かなかった。
表紙を見てから立ち上がり、その本を元の棚へ戻した。
最後までい読みいただき、ありがとうございました。
Thank you for reading to the end.