昭和初期の東京を舞台にした創作小説です。
「あのころ、東京にいた」第二章 第一話【瑠璃子編】
昭和六年四月二十六日(日)
日曜日の朝、静一郎はいつもの革鞄を持って下宿を出た。
学生課でもらった紙には、三枝瑠璃子という名前と、西片町の住所が書かれている。大学からそう遠くはなかったが、初めて訪ねる家なので、昨夜のうちに地図でおおよその場所を確かめておいた。
本郷通りから西へ入り、番地を見ながら歩いた。
大学へ通うようになってから、この辺りの道も少しずつ分かるようになっていた。それでも普段使う道を外れると、知らない横道がいくつもある。静一郎は二度ほど立ち止まって番地を確かめ、やがて塀の向こうに庭木の見える家の前で足を止めた。
表札には、三枝とあった。
門を入り、玄関で声をかける。
少しして足音がして、四十前後に見える女が出てきた。割烹着の袖を少し直しながら、静一郎を見る。
「橘さんですか」
「はい。橘静一郎と申します。本日からお世話になります」
頭を下げると、女は「ああ、橘さん」と言って玄関を開けた。
「奥様から伺っております。どうぞ、お上がりください」
靴を脱いでいるあいだに、女は奥へ向かって声をかけた。
「奥様、橘さんがお見えになりました」
奥で戸の開く音がして、やがて衣擦れが近づいてきた。
廊下の奥から現れた女は、灰色がかった着物を着て、髪を後ろの低い位置にまとめていた。目元には四十代らしい落ち着きがあり、華やかな装いではなかったが、着物も帯もよく身体に馴染んでいた。
女は玄関まで来ると、静一郎へ目を向けた。
「三枝です。今日はわざわざありがとうございます」
「橘です。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。大学からお話は伺っています」
瑠璃子は女中に、
「お茶はあとで結構よ」
と言ってから、静一郎の方へ身体を向けた。
「先に、本を見ていただいた方がよろしいでしょうか」
「はい」
静一郎は、そのまま瑠璃子の後について廊下を進んだ。
通された部屋へ入ると、静一郎はまず中を見回した。
三方の壁に背の高い本棚が並び、上の段まで本で埋まっていた。革装の厚い本、何冊も巻を揃えたもの、独逸語の背文字の本。そのほかにも机の上には本が重ねられ、床にはまだ箱に入ったままの本がいくつもある。
学生課で、一度や二度では済まないだろうと言われた意味が分かった。
瑠璃子が棚の方を見た。
「主人の本なんです。亡くなってから、そのままになっているものが多くて」
「こちらにあるものが全部でしょうか」
「いいえ。隣の部屋にもありますし、箱に入ったままのものもあります」
「そうですか」
静一郎は箱の方へ目を移した。
「大学からは、書名と著者、巻数などを確認して、簡単な目録を作ると伺っています」
「ええ。私にも何がどれだけあるのか、もう分からなくなってしまって。処分するものを決めるにしても、まず整理をしていただかないことには」
「書き込みのある本は、別にしておいた方がよろしいでしょうか」
瑠璃子が静一郎を見た。
「書き込み?」
「はい。お使いになっていた本なら、書き込みや紙を挟んだものがあるかもしれませんので」
「ああ」
瑠璃子は少し考えた。
「それは残してください。挟んである紙も、勝手に捨てないでいただけますか」
「分かりました」
静一郎は革鞄から筆記具とノートを出した。
「それから、同じ本が二冊以上あった場合ですが」
「はい」
「版が違えば別に記録します。同じ版でも、書き込みが違うようなら分けておいた方がよいと思いますが、それでよろしいでしょうか」
瑠璃子は棚に並んだ本へ目をやった。
「そうしてください」
「分かりました」
「そこまで分けて見るのですね」
静一郎は手元のノートを開いた。
「あとから区別できなくなると困りますので」
瑠璃子は開かれたノートへ目を落とした。
「では、そのやり方でお願いします。私は向こうにおります。何かありましたら呼んでください」
瑠璃子はそう言って部屋を出ていった。
静一郎はまず、一番手前の棚から本を数冊抜いた。
一冊ずつ机へ置き、背と扉を確かめる。書名、著者、巻数、刊行年を順に記していった。古い本には扉の文字が擦れているものもあり、一度では分からない箇所は空けておく。
数冊目で、独逸語の本が出てきた。
静一郎が頁を開くと、本文の脇に細かな字が書き込まれていた。鉛筆のものもあれば、インクで記されたものもある。途中には紙片が一枚挟まっていた。
先ほど確認したとおり、書き込みのある本として分け、紙片は抜かずにそのままにした。
それから一時間ほど、静一郎はほとんど席を立たなかった。
棚から本を取り出し、記録し、必要なら中を確かめて元とは別の場所へ置く。整理を終えたものと、まだ確認の必要なものが混じらないよう、最初に置く場所を決めた。
途中、女中が茶を運んできた。
「まあ」
盆を置きながら机の上を見回す。
「もうこんなに」
「まだ十数冊です」
「私には、どれがどれだかさっぱりです」
女中はそう言って笑い、湯呑を静一郎の手元から少し離れたところへ置いた。
「奥様がお昼は十二時頃に、と」
「ありがとうございます」
茶を一口飲んでから、また本へ戻った。
二冊続けて同じ書名が出てきた。刊行年も同じだったので中を確かめると、一冊にはほとんど書き込みがなく、もう一冊には何頁にも鉛筆の線が引かれていた。
静一郎は同じ本としてまとめず、番号を分けた。
昼前になって瑠璃子が戻ってきたときには、机の端に記録を終えた本がまとまっていた。
「どのくらい進みました?」
静一郎はノートを見た。
「二十八冊です。ただ、あとで確認した方がよいものが四冊あります」
「何か分からない本がありましたか」
「本そのものではありません」
静一郎は一冊を抜いた。
「第二巻となっていますが、第一巻が今の棚にはありません。別のところにあるかもしれませんので、欠巻とはまだ書いていません」
瑠璃子は本を受け取らず、その表紙を見た。
「そういうものまであるんですね」
「はい」
「私なら、ないと思ってしまいます」
「ほかの箱を見てからの方がいいと思います」
瑠璃子は少し笑った。
「では、橘さんには全部の箱を見ていただかないといけませんね」
静一郎は壁際の三つの箱を見た。
「そうですね」
瑠璃子も同じ方を見た。
「嫌になりました?」
「いいえ」
答えてから、静一郎は少し考えた。
「ただ、かなり時間はかかると思います」
瑠璃子が笑った。
「それは私も分かっています」
*
昼食は別の部屋に用意されていた。
特別に豪華な膳ではなかった。煮物と焼き魚、それに汁がついている。
朝から本ばかり見ていたので、思ったより腹が空いていた。
食べ始めてしばらくすると、廊下を通った瑠璃子が戸口から声をかけた。
「足りなければ、遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとうございます。十分です」
「そう。では、ごゆっくり」
瑠璃子はそのまま廊下の向こうへ行った。
食事を終えると、静一郎は礼を言って元の部屋へ戻った。
午後も続きを進めた。
午前中におおよそのやり方が決まったので、作業は少し早くなった。同じ著者の本がまとまっているところもあれば、まったく違う分野の本が間に入っているところもある。
途中で、瑠璃子が一冊の本を持って入ってきた。
「これもお願いしてよろしい?」
静一郎は受け取って扉を確かめた。
「はい。同じ著者の本が二冊ありますので、そちらと一緒にしておきます」
「そうしてください」
瑠璃子は本を預けると、また部屋を出ていった。
午後四時を過ぎる頃には、窓から入る光の向きが変わっていた。
静一郎はその日の最後の一冊を棚から抜き、記録を終えてからノートを閉じた。
全部で六十七冊。
確認を残したものが九冊あった。
まだ最初の棚の半分にも届いていない。
机の上を片づけ、筆記具を革鞄へ戻していると、瑠璃子が入ってきた。
「今日はそのくらいにしましょう」
「はい」
静一郎はノートを開き、その日の分を瑠璃子へ見せた。
「こちらまで終わりました。印をつけてあるものは、まだ確認が必要です」
瑠璃子は椅子の横に立ったまま、頁を上から見ていった。
「これを毎回?」
「はい。この形でよろしければ」
瑠璃子はもう一度最初の頁へ戻り、目録に目を通した。
「これでお願いします」
静一郎はノートを受け取った。
「分かりました」
「次の日曜日も、大丈夫ですか」
「はい。伺えます」
「では、来週も同じ頃に」
「承知しました」
玄関まで来ると、女中が靴を揃えてくれていた。
静一郎が礼を言って靴を履き、立ち上がる。
「今日はありがとうございました」
瑠璃子が言った。
「こちらこそ、ありがとうございました」
「来週もよろしくお願いします」
「はい」
頭を下げ、門を出た。
西片町の道を戻りながら、静一郎はまだ見つかっていない第一巻のことを考えていた。
最後までい読みいただき、ありがとうございました。
Thank you for reading to the end.