昭和初期の東京を舞台にした創作小説です。
「あのころ、東京にいた」第一章 第三話【上京編】
昭和六年四月二十日(月)
講義が終わり、学生たちが次々に席を立ち始めた。
前の方では、そのまま机に手をついて話し込んでいる者もいた。
静一郎はノートを閉じ、鉛筆を筆入れに戻した。
大学へ通い始めて十日余りになる。この頃には、講義ごとの教室も、ほぼ頭に入っていた。
「小川、昼どうする?」
後ろから声がした。
小川が振り返った。
「食堂。田辺は?」
「今日は外」
答えた学生が机の間を抜けてきた。
「橘君、田辺」
小川が静一郎の方を見た。
「田辺です。よろしく」
「橘です。よろしくお願いします」
「ああ、橘君か」
田辺は頷いた。
「よく小川と一緒にいるよね」
「講義が同じことが多いので」
「なるほど」
田辺は少し笑った。
「じゃあ、また」
「また」
小川が返すと、田辺は先に戸口へ向かった。
「行こうか」
「はい」
静一郎も革鞄を持って立ち上がった。
*
食堂はすでに学生で混み始めていた。
二人は食事を受け取り、空いた席を見つけて向かい合って座った。
小川が箸を取りながら、
「さっきの最後、書いた?」
と訊いた。
「二度繰り返したところですか」
「そう」
「書きました」
「やっぱり」
小川は一口食べてから、
「その前から書いてたら、途中で分からなくなって」
と言った。
「前のところは、同じ話を言い換えていたのだと思います」
「そうか。じゃあ、あとで見直してみる」
静一郎は箸を動かした。
隣の卓では三、四人の学生が何かを言って笑っている。少し離れたところでは席が一つ空き、それを見つけた二人組がすぐに腰を下ろした。
しばらくして、小川がまた口を開いた。
「橘君、今日はもうない?」
「講義はありません」
「僕は午後に一つある」
「そうですか」
「橘君は帰る?」
「学生課へ寄っていきます」
小川は一度顔を上げた。
「学生課?」
「はい」
小川は湯呑みに手を伸ばした。
食事を済ませ、二人は食堂を出た。
構内を歩いていると、小川が前を行く学生へ声をかけた。
「野村」
本を抱えていた学生が振り返った。
「これから?」
「ああ。もう行かないと」
「そうか。――橘君、野村。野村、橘君」
互いに頭を下げた。
「じゃあ、先に行ってる」
野村が言った。
「ああ」
小川が返すと、野村はそのまま先へ行った。
「僕もこっち」
「では、また」
「また」
小川は野村が向かったのと同じ方へ歩いていった。
静一郎は学生課の方へ向きを変えた。
*
講義が始まってから、必要になる本は少しずつ増えていた。
本代くらいは、自分で賄いたかった。
学生課へ入り、職員の一人に声をかけた。
「すみません」
職員が顔を上げた。
「学生でもできる仕事があれば、伺いたいのですが」
「仕事ですね」
「何学部ですか」
「法学部です。一年です」
「法学部の一年ね」
職員は手元の書類を何枚かめくった。
「日曜日なら空いていますか」
「はい」
しばらく紙を見ていた職員の手が止まった。
「それなら、一つありますよ」
一枚を抜き出した。
「亡くなった方の蔵書を整理してほしいそうです」
「蔵書ですか」
「かなり本があるらしいですよ。書名や著者を控えて、巻が揃っているか確かめながら整理するんです。簡単な目録も作ってほしいという話です」
「はい」
「法律関係の本が多いそうです。洋書もある。独逸語の本もかなりあるらしい」
「独逸語の本も、目録に入れるのですか」
「もちろん」
職員が静一郎を見た。
「読めますか」
「読む方なら、ある程度は」
「高等学校で?」
「はい。第一外国語でした」
「それならちょうどいい」
「原則は日曜日。一日仕事で、昼は先方で出す。謝礼は一円五十銭」
「毎週でしょうか」
「当分はそのつもりらしい。本が多いから、一度や二度では済まないでしょうね。都合の悪い日は、先方と相談すればいいですよ」
「分かりました」
職員が紙を机の上へ置いた。
「どうします?」
「お願いしたいと思います」
職員は別の紙を引き寄せた。
「では、こちらから先方へ連絡しておきます。三枝瑠璃子さんという方です」
住所を書いた紙を静一郎へ差し出した。
静一郎は受け取って目を通した。
「今度の日曜日からでいいですか」
「二十六日ですね」
「ええ」
「分かりました。伺います」
紙を二つに折り、革鞄へしまった。
次の日曜日、三枝家を訪ねることになった。
最後までい読みいただき、ありがとうございました。
Thank you for reading to the end.