昭和初期の東京を舞台にした創作小説です。
「あのころ、東京にいた」第三章 第一話【久世夫妻編】
昭和六年六月十四日(日)
午後のうちに、奥の書棚をもう一段だけ片づけるつもりだった。
三枝瑠璃子の家には、同じ本が二冊あることも珍しくない。版が違うもの、前の持ち主が書き込みを残しているもの、どこからか贈られてそのままになっていたものまであり、題だけを見て重複としてしまうと、あとで瑠璃子から待ったがかかる。
静一郎は一冊ずつ奥付を確かめ、手元の紙へ書きつけてから棚へ戻していた。
客が来たのは、その途中だった。
玄関の方で女中の声がし、しばらくして廊下を歩く二人分の足音が近づいてきた。瑠璃子の客は珍しくない。書庫と客間は離れているが、間の襖が開いていると話し声だけはよく通る。
「まあ、今日はどうなさったの」
瑠璃子の声がした。
「近くまで参りましたから」
知らない女の声だった。
高くはないが、よく通る。言葉の端がきれいで、瑠璃子とは気安く話しているらしい。
静一郎は本を一冊抱えて立ち上がり、脚立の二段目へ足を掛けた。上の棚へ本を戻して振り返ると、開いた襖の向こうに女が立っていた。
目が合った。
女はすぐに顔をそらすでもなく、そのまま静一郎を見ていた。
瑠璃子が何か言い、女はそちらへ向き直った。静一郎も仕事へ戻ったが、次の本を調べ、さらにもう一冊を棚へ戻した頃、廊下を通った女がまたこちらを見た。
一度なら、知らない人間がいるので目を向けただけだろう。
二度となると、少し理由が分からなかった。
静一郎は自分の袖を見た。埃でもついているのかと思ったが、特に何もない。襟元にもおかしなところはなかった。
「橘さん」
瑠璃子が呼んだ。
「はい」
「少し休んだら。朝からやっているでしょう」
「もう少しで、この段が終わります」
「本は逃げませんよ」
そう言われれば、その通りだった。
静一郎が書庫から出ると、先ほどの女は客間の長椅子に座っていた。淡い色の着物に、柄の少ない帯を締めている。華美な装いではないが、袖口から出た手や、膝の上へ重ねた指までよく整って見えた。
瑠璃子が茶を勧めながら言った。
「こちら、久世紗代子さん。古くからの知り合いなの」
静一郎は頭を下げた。
「橘静一郎です」
「先ほどからお邪魔してしまって」
「いいえ」
紗代子も頭を下げたが、そのあとまた静一郎を見た。
近くで見ると、相手の顔をじっと見るというより、顔を見たあとに襟元や手元へ視線が移っている。静一郎は、自分が書庫から何か持って出てきたのかと思い、右手を確かめた。鉛筆しか持っていなかった。
瑠璃子が笑った。
「この人、うちの本を片づけてくださっているの。私では、いつまで経っても終わらないから」
「学生さんって、そんなこともなさるの?」
「大学の方からご紹介いただいた仕事ですから」
静一郎が言うと、紗代子は少し首を傾けた。
「お好きなの、本が」
「読むのは好きです。ただ、今しているのは整理ですから、読んではいません」
「一冊も?」
「途中で読み始めると、整理になりませんので」
紗代子が笑った。大きな笑いではなく、口元を隠すこともしなかった。
「ずいぶん真面目なのね」
瑠璃子が茶を置きながら、「帝大の法学部なのよ」と付け加えた。
「あら」
紗代子はもう一度静一郎を見た。
「だから、そんなにきちんとお答えになるのね」
「それは法学部とは関係がないと思います」
今度は瑠璃子まで笑った。静一郎は何がおかしいのか分からないまま、茶を飲んだ。
茶を飲み終えると、静一郎は書庫へ戻った。客間では瑠璃子と紗代子の話が続いており、共通の知人のことらしく、静一郎の知らない名前がいくつか聞こえてきた。聞くつもりはなかったが、襖が開いているので声までは避けられない。
そのまま一時間ほど作業を続け、棚の一段を終えた頃、客間から椅子を引く音がした。そろそろ帰るのだろうと思いながら次の本を開いていると、書庫の入口から声がした。
「橘さん」
顔を上げると、紗代子が立っていた。
「ごきげんよう」
静一郎が頭を下げると、紗代子も会釈をして瑠璃子と玄関の方へ行った。やがて戸の閉まる音がし、静一郎は本へ目を戻した。
帰り際に、自分の名前を呼ばれたことが、少し意外だった。
*
昭和六年六月二十八日(日)
二度目に久世紗代子を見たのは、それから二週間ほどしてからだった。
その日も日曜で、静一郎は午前から瑠璃子の家に来ていた。奥の書棚は前よりいくらか空きができたが、別の部屋から新しい箱が二つ運ばれてきたため、終わりが近づいたとは言いにくい。
午後になって、静一郎は書名と著者名を書きつけた紙を見直していた。同じ著者の本が別々の棚から出てきたので、先に記録したものと照らし合わせていたところへ、廊下から瑠璃子の声がした。
続いて聞こえた声で、誰が来たのか分かった。
「また本が増えているじゃない」
「私が増やしたんじゃありませんよ。あちらの箱から出てきたの」
「同じことでしょう」
紗代子の声だった。
静一郎は紙へ目を戻した。しばらくすると話し声は客間へ移り、女中が茶を運んでいった。
三十分ほどして、静一郎が棚の下へ膝をつき、積んであった本の背を順に確かめていると、入口の方から声がした。
「今日はお茶に呼んでくださらないの?」
顔を上げると、紗代子が立っていた。
「私がですか」
「ええ」
「三枝さんにおっしゃってください」
紗代子は笑った。
「そうね」
それでも戻らず、書庫の中を見回した。前に来たときより本が減っている棚もあれば、床に新しく積まれたものもある。
「まだ終わらないの?」
「増えましたので」
「増えたの?」
「別の部屋にもあったそうです」
「お気の毒」
「仕事ですから」
紗代子はまた笑ったが、今度は何も言わなかった。
静一郎が膝の上の紙へ視線を戻すと、紗代子の視線もそこへ落ちた。
「全部、書いていらっしゃるの?」
「あとで何がどこにあるか分からなくなりますから」
紙には書名と著者名のほか、版や刊行年、棚の番号まで書いてある。紗代子はそれをしばらく見てから、床に積まれた本へ目を移した。
「こちらは外国の本?」
「独逸語です」
「読めるの?」
「全部ではありません。書名や目次なら分かりますし、必要なら辞書を引きます」
紗代子は一冊の背を眺めた。
「これも法律の本なのね」
「そうです」
「日本の法律とは違うの?」
静一郎は手元の紙を脇へ置いた。
「違うところはあります。国が違えば制度も違いますし、同じ国でも時代によって変わります」
「法律って、もっと一つに決まっているものだと思っていたわ」
「決まってはいます。そのとき、その場所では」
紗代子が静一郎を見た。
「では、決まったことが変わるの?」
「変わります」
「それでも法律なのね」
「変わるまでは法律ですから」
紗代子は少し笑った。
「あなたとお話ししていると、簡単なことまで難しく聞こえるわ」
「難しく言ったつもりはありません」
「ええ。そこが面白いの」
客間から瑠璃子が紗代子を呼んだ。
「今行くわ」
返事をしてからも、紗代子はすぐには動かず、積まれた本をもう一度見た。
「お邪魔したわね」
「いいえ」
紗代子が客間へ戻ると、静一郎は紙を膝へ戻した。途中になっていた一冊の書名を書き、刊行年を確かめてから、その次の本を取った。
それから一時間ほどして、玄関の方で帰り支度をする声が聞こえた。今度は紗代子が書庫まで来ることはなく、瑠璃子との話し声が遠ざかり、やがて戸が閉まった。
静一郎はその日の分の紙を順に重ねていた。
少しして、瑠璃子が書庫へ戻ってきた。
「紗代子さん、あなたと話すのが面白いんですって」
静一郎は紙の端を揃えながら顔を上げた。
「私とですか」
「そう」
瑠璃子はそれだけ言って、机の端に置かれていた一冊を手に取った。
「これは、もう済んだもの?」
「いえ。まだです」
静一郎は本を受け取り、未整理の方へ戻した。
*
昭和六年七月五日(日)
前の日曜、帰り際に瑠璃子から一枚の案内状を渡されていた。
銀座で名の知られた白鷺画廊のもので、七月六日から始まる夏季洋画展の案内だった。
静一郎も新聞の催し欄で名前を見たことがある。裏には紗代子の字で、日曜の四時頃、よろしければいらっしゃい、とだけ書き添えてあった。
「まだ始まっていないでしょう」
静一郎が言うと、瑠璃子は案内状を裏返した。
「だからでしょうね」
「何がですか」
「行けば分かりますよ」
それ以上は教えてくれなかった。
その日、静一郎は蔵書整理をいつもより早く切り上げ、四時を少し回った頃に銀座へ着いた。
画廊の入口には翌日からの展覧会を知らせる紙が出ていたが、中に客の姿はない。受付にいた男へ案内状を見せると、「久世さんのお客さまですね」と言われ、そのまま奥へ通された。
壁にはすでに大半の絵が掛けられていた。大小の油絵が二十数点あり、床にはまだ木箱がいくつか残っている。脚立に上った男が額を掛け、別の男は壁際の長椅子を動かしていた。
その間を、背の高い男が行き来している。
上着は入口近くの椅子に掛けてあり、白いシャツの袖を折り返していた。
「そこでは少し近いな」
男が言った。
脚立の上で額が右へ動く。
「もう少し」
さらに少し。
「そこです」
男はその位置をしばらく見てから、隣の絵へ目を移した。
「こちらは一枚外しましょう」
画廊の主人らしい年配の男が壁を見上げた。
「これを外しますか」
「ええ。別の壁へ移せます。ここに三枚あると、真ん中が一番弱くなる」
主人はもう一度壁を眺め、それから職人へ声をかけた。
一枚外されると、さっきまで狭く見えていた壁に余白ができた。中央の絵そのものは変わっていないのに、輪郭が前よりはっきり見える。
静一郎は入口近くに立ったまま、その様子を見ていた。
脚立が動き、額が掛け替えられ、壁際の木箱も次々と場所を移していた。その男が一つ決めるたび、周囲の手も次へ進み、指示を受けた者が同じことを聞き返すこともほとんどなかった。
「橘さん」
奥から紗代子が出てきた。
今日は淡い色の着物ではなく、灰青の着物にそれより濃い帯を締めている。手には印刷された案内状を何枚か持っていた。
「いらしたのね」
「お招きいただきましたので」
「来てくださらないかと思っていたわ」
「日時まで書いてありましたから」
紗代子が笑った。
「そういうところ、律儀なのね」
案内状を机へ置き、先ほどの男を呼んだ。
「貞臣」
男が振り返った。
「こちら、橘静一郎さん。三枝さんのお宅でお会いしたって、お話ししたでしょう」
「ああ」
久世貞臣は静一郎の前まで来た。
近くに立つと、遠目に見たより背が高かった。静一郎が頭を下げると、貞臣も会釈を返した。
「はじめまして」
「橘静一郎です」
「帝大の法学部だそうだね」
「はい」
貞臣はそれ以上尋ねなかった。静一郎の顔を見たあと、襟元から手元へと視線が移る。
前にも同じように見られた。
紗代子だった。
「貞臣、こちらはどうするの?」
紗代子が一方の壁を指した。
大きな人物画が一枚、その向かいには風景画が二枚掛かっている。
貞臣は少し離れた。
「人物を入口側へ移そう」
「私は今の方がいいと思うわ」
貞臣が紗代子を見た。
「どうして?」
「最初にあれが見えたら、みんなそこで止まるでしょう。奥まで行かないわ」
貞臣はその場で答えず、入口まで戻った。そこから人物画と奥の壁を見比べる。
「……そうだな」
職人の方を向いた。
「人物はそのままで。風景を一枚、奥へ移してください」
脚立が動いた。
紗代子はすでに別の案内状へ目を落としていた。貞臣も、自分の案を変えたことについて何も言わない。
静一郎は二人を見た。貞臣が壁や絵の並びを見るのに対して、紗代子はそこを歩く人間の方を見ているらしい。
「久世さん」
若い男が大きな紙を持ってきた。展覧会の広告らしく、上部に画廊の名、その下に出品者の名前が並んでいる。
「これで刷りへ回そうと思うんですが」
貞臣は紙を受け取り、しばらく眺めた。
「この線はいらないな」
「ここですか」
「ええ。それと、画廊の名をもう少し下へ」
若い男は紙を覗き込んだ。
「空きすぎませんか」
「空いていていい。画廊の名前を見せるための広告ではないでしょう」
「そうですね」
男は頷き、紙を受け取った。
「では、出品者の名前が先に見えた方がいいんですね」
「その方がいい」
男が離れかけたところで、貞臣がもう一度紙を見た。
「待ってください。三人目と四人目を入れ替えてみましょう」
「順番もですか」
「この方が流れがいい」
紗代子が横から覗き込んだ。
「でも、その方のお名前は最後でもいいんじゃない?」
貞臣は紙から顔を上げた。
「そう思う?」
「この並びなら、最後にあった方が覚えるでしょう」
貞臣は紙を取り戻し、名前を上から順に見直した。
「……そうだな。最後へ」
若い男が笑った。
「では、結局ずいぶん変わりますね」
「まだ刷っていないんだから、今ならいくらでも変えられる」
貞臣は紙を返した。
声を荒らげることも、誰かを急かすこともなかった。
静一郎には絵の良し悪しは分からなかったが、貞臣が何かを動かしたあと、前より見やすくなっていることは分かった。
「どう?」
紗代子が聞いた。
「何がですか」
「貞臣のお仕事」
静一郎は壁を見た。
先ほど一枚外された場所では、中央の絵の周りに広く壁が残っている。その方が、絵の形も色も前より目に入りやすい。
「ずいぶん細かく決めるんですね」
紗代子が笑った。
「感想がそれ?」
「違いましたか」
「いいえ。そういうところを見るのね」
貞臣がこちらを見た。
「君はどう思う」
静一郎はもう一度壁へ目を向けた。
「私は絵については分かりません」
「絵についてでなくていい」
「来たときより、どこを見ればいいのか分かりやすくなりました」
貞臣は壁を振り返った。
「一枚減ったから?」
「それもあると思います」
「ほかには?」
静一郎は今度は一枚ずつではなく、入口から奥までを見た。
「最初に目に入る絵と、その次に見る絵が離れたからではないでしょうか」
貞臣が静一郎を見た。
「なるほど」
貞臣はそれ以上聞かず、口元だけを少し緩めた。それから近くにいた職人へ声をかけ、奥の壁へ向かった。
紗代子は、机に置いた案内状を揃え始めた。
しばらくして、画廊の主人が静一郎に何枚かの絵について話してくれた。静一郎は説明を聞きながら順に壁を見ていったが、画家の名前より、先ほどどの絵がどこから移されたかの方をよく覚えていた。
奥から戻ってきた貞臣が、紗代子のそばへ立った。
静一郎は少し離れた壁の前にいたが、二人の声は聞こえた。
「どうだった?」
紗代子が尋ねた。
「君の言った通りだな」
「でしょう」
紗代子は案内状を一枚机へ置き、静一郎の方を見た。
「だからあなたにも見せたかったの」
貞臣もこちらを見た。
「分かった」
静一郎は目の前の絵へ視線を戻した。
最後までい読みいただき、ありがとうございました。
Thank you for reading to the end.