昭和初期の東京を舞台にした創作小説です。
「あのころ、東京にいた」第一章 第二話【上京編】
昭和六年四月八日(水)
上京して一週間あまりが過ぎた。
朝食を済ませ、静一郎は部屋へ戻って革鞄に筆記具と必要なものを入れた。東京へ来た日に持っていたのと同じ鞄だったが、中に入っているものはもう旅の道具ではない。
階下へ降りると、玄関の近くで綾が手を止めた。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
靴を履いて外へ出た。
下宿から少し歩き本郷通りへ出ると、同じ方向へ向かう学生が何人もいて、二人、三人と連れ立って歩く者もいる。店の前で立ち話をしていた学生が途中からその流れに加わり、少し先では制帽をかぶった青年が本を抱えたまま友人に追いついていった。
上京した日に一人で歩いたときとは、同じ道でも見えるものが違っていた。
門を入ってからも学生の流れは一つではなく、それぞれの建物へ向かって分かれていく。静一郎は人の動きを見ながら歩き、掲示の前で足を止めた。
すでに何人かが前に立っていたので、後ろでしばらく待った。二人ほどが掲示の前を離れるのを待って、静一郎は前へ出て、自分に関係するところを上から順に読み、教室を確かめた。
教室へ入ると、まだ席には余裕があった。静一郎は前の方の、まだ空いている席に座った。革鞄を足元へ置き、筆記具を出しているうちにも学生は少しずつ増えていった。
しばらくして、隣から声がした。
「ここ、空いてますか」
顔を上げると、丸眼鏡をかけた学生が立っていた。片手に本を持っている。
「はい。どうぞ」
「ありがとう」
学生は椅子を引いて座り、本と筆記具を机の上へ置いた。
それからしばらく、二人とも話さなかった。
前の方では、知り合いらしい学生たちが立ったまま話している。廊下を歩く足音が聞こえ、戸が開くたびにまた何人かが入ってきた。
隣の学生が教室を見回したあと、静一郎の方を向いた。
「ここで合ってますよね。法学部の一年」
「はい。掲示には、この教室とありました」
「よかった。僕も見てきたんだけど、初めてだからどうも自信がなくて」
「私も今日が初めてです」
「ああ、そうですよね」
学生は一度前を見た。
「僕、小川正雄です」
「橘静一郎です」
「橘君。よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
小川はそのまま筆記具を手元へ寄せた。
少しして、
「橘君は東京の人?」
と訊いた。
「いいえ。富山です」
「そうなんだ。僕は岐阜」
「そうですか」
小川はそれ以上尋ねなかった。
やがて教室の話し声が少なくなり、学生たちが次々と席についた。静一郎も机の上へ視線を戻した。
ほどなく教員が入ってきた。初めに、これから扱うことについて短い説明があり、そのまま話は本題へ移った。
静一郎は筆記しながら聞いていたが、どこまで書き留めればよいのか、最初は加減が分からなかった。話されたことを一つ一つ書き取ろうとすると、次の話を聞き落とす。しばらくして、繰り返されたことや、話の筋を追うのに必要なところを選んで書くようになった。
隣を見ると、小川も同じように筆を動かしていた。
講義が終わると、教室は急に騒がしくなった。椅子を引く音が重なり、学生たちが戸口へ向かう。
静一郎が筆記具をしまっていると、小川が本を抱えて立ち上がった。
「橘君、次もある?」
「はい。午後にもう一つあります」
「僕も。次、どこだったかな」
二人は一緒に教室を出た。
廊下へ出ると、小川は手にしていた紙を開いた。
「次もここだったかな」
「次は別の教室だったと思います」
「え?」
小川が紙へ目を落とし、少し目を走らせた。
「あ、本当だ」
「まだ時間はあります」
「そうだな」
午後の講義まではまだ間があった。階段のところまで来ると、小川は別の方向へ身体を向けた。
「じゃあ、また」
「はい」
小川が学生の間へ入っていくのを見送ってから、静一郎も階段を下りた。
*
翌朝、静一郎が教室へ向かって廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「橘君、おはよう」
振り返ると、小川が本を片手にこちらへ歩いてきた。
「おはようございます」
「今日も早いね」
「君も」
「僕は昨日、教室を間違えかけたから」
そう言って、小川は静一郎の隣を歩いた。
最後までい読みいただき、ありがとうございました。
Thank you for reading to the end.