昭和初期の東京を舞台にした創作小説です。
「あのころ、東京にいた」第二章 第二話【瑠璃子編】
昭和六年五月三日(日)
次の日曜日、静一郎は前の週とほぼ同じ時刻に三枝家へ来た。
玄関で女中に迎えられ、そのまま書庫へ入る。机の上には、前回、確認が残った九冊が、ほかの本と分けて置かれていた。
静一郎は革鞄からノートと筆記具を出し、一番上の本を取った。その隣には、瑠璃子が別の部屋から持ってきた本が数冊重ねてあった。
「あ」
書庫を出ようとしていた瑠璃子が振り返った。
「どうしました?」
静一郎は一冊を持ち上げた。
「第一巻です」
「ああ」
先週、第二巻だけが見つかっていた本だった。
瑠璃子は机へ戻り、表紙を見た。
「本当にありましたね」
「はい。こちらの部屋にあったんですね」
静一郎はノートを開き、先週つけた印の横に書き加えると、第一巻を第二巻の隣へ置いた。
「私なら、ないことにしていましたよ」
瑠璃子は少し笑った。
「橘さんが正しかったのね」
静一郎は顔を上げた。
「正しいというより、まだ分からなかっただけです」
「そうでしたね」
瑠璃子は書庫を出た。
それからは、前の週と同じだった。瑠璃子は家の用事をし、静一郎は書庫で本を見た。
昼前には、記録を終えた本と、まだ手をつけていない本が、机の上できちんと分けられていた。
午後になって、静一郎は一冊の本をほかとは別に机の端へ置いた。
先ほど、同じ書名、同じ版のものを一冊確認していた。そちらにはほとんど何も書かれていなかったが、今手にしている方には、ところどころ余白に文字が入っている。
目録を作るだけなら、内容まで読む必要はない。
ただ、同じ本が二冊あり、その片方にだけ多くの書き込みがある。静一郎は書き込みのある方には別に備考をつけることにして、ノートの欄を分けた。
しばらくして、瑠璃子が茶を持ってきた。
盆を机へ置いたところで、端へ寄せてある本に目を留めた。
「それだけ別なんですか?」
「はい。同じ版がもう一冊ありますが、こちらには書き込みがありますので」
「書き込み?」
瑠璃子が本を覗き込んだ。
静一郎は頁を開いた。
本文の周囲に、小さな文字がいくつも並んでいる。鉛筆のものもあれば、インクで書かれたものもあり、ところどころに独逸語が混じっていた。
瑠璃子はしばらく眺めてから言った。
「主人の字です」
「やはりそうですか」
「ええ」
瑠璃子は頁をめくった。
若い頃から何度も見てきた字だった。
急いで書いたところは少し崩れ、あとから付け足したところでは字が小さくなる。その癖にも覚えがある。
けれど、書いてあることまでは分からなかった。
日本語なら読める。
その間に独逸語が入り、条文の番号らしい数字が続くと、何について書いているのか分からなくなる。
瑠璃子の目が、余白の二つの語で止まった。
「それ、何て書いてあるんです?」
静一郎は瑠璃子が見ているところへ目を移した。
「ここですか」
「ええ。その独逸語」
静一郎は示された文字を見た。
鉛筆で、短い語が二つ書かれている。
Kenntnis.
その下に、
Kennenmüssen.
「こちらは、知っていること、という意味です」
静一郎は上の語を指した。
「下は?」
「知らなかったとしても、注意していれば知り得た、という意味に近いです」
瑠璃子には、まだ二つの言葉が何を指しているのか分からなかった。
「どうして二つ書いてあるの?」
静一郎は本文へ目を移した。
その頁には、意思表示についての説明があった。数行を読んでから、もう一度余白を見た。
「日本の民法と、独逸民法を比べていたんだと思います」
「比べていた?」
「はい」
瑠璃子は椅子の横へ立ったまま、静一郎の手元を見た。
「分かるんですか?」
「少しなら」
静一郎は前の頁へ戻った。
そこにも夫の字があった。
鉛筆で、
――独逸民法第一一六条ト同旨。
と書かれていた。
「こちらでは、日本の条文と独逸民法の条文は同じ趣旨だ、と書いてあります」
「主人が?」
「はい」
静一郎は先ほどの頁へ戻った。
最初の書き込みには一本線が引かれている。その下には、鉛筆とは違う濃いインクで、別の文章が加えられていた。
――否。独一一六条ハ相手方之ヲ知ル場合ノミ。九三条但書ハ「知ルコトヲ得ヘカリシ」場合ヲ含ム。区別ヲ要ス。
瑠璃子はそこまでは読めた。
「これは?」
「前に書いたことを訂正しています」
「間違っていたということ?」
静一郎はすぐには答えず、本文と二つの書き込みを見比べた。
「最初は同じものだと考えていたんだと思います」
「ええ」
「でも、あとで違いに気づいた」
「どんな違い?」
静一郎はもう一度本文を確かめた。
「日本の方は、相手が本当の意思を知っていた場合だけではなく、事情から見て知ることができた場合も含んでいます」
瑠璃子は黙って聞いていた。
「でも、ここで参照している独逸民法の条文は、相手が知っていた場合について書いてある。だから、まったく同じではない、と」
「それに気づいて、書き直したの?」
「たぶん」
静一郎は一度言葉を切った。
「前後も読まないと、確かなことは言えませんが」
瑠璃子はもう一度、夫の書き込みを見た。
最初に書いた言葉へ自分で線を引き、その下に別の考えを書き加えていた。
「いつ書いたものか、分かります?」
「こちらに日付があります」
静一郎は書き込みの末尾を指した。
小さな字で、年月が添えられている。
大正七年十一月。
「十一月ですね」
静一郎が言った。
瑠璃子は返事をしなかった。
*
大正七年十一月。
その年月を見ているうちに、先に浮かんだのは夫の書斎ではなかった。
夕食の膳だった。
その秋、瑠璃子は三十四歳だった。
結婚して十二年、一人娘は十一歳になっていた。
夫の帰りが遅くなることは、それまでにもあった。法制局の仕事が立て込めば帰宅が夜になることもあったし、役所を出てから人と会う日もあった。研究会だということもあれば、昔の知人と食事をしてくることもあった。
夫婦になって十二年も経てば、相手の一日を何もかも知っているわけではない。それで困ったこともなかった。
朝は夫を送り出し、続いて娘を学校へ出す。夕方になれば夫が帰り、三人で食卓を囲んだ。
本の話になると、夫は長かった。
「その先は私には難しいわ」
瑠璃子がそう言うと、
「今のところまでは分かっただろう」
と笑って、また話を続けた。
縁談から始まった結婚だったが、瑠璃子は夫を好きになった。
分からないと言えば言葉を替えてくれた。新聞の記事について意見を求められることもあった。娘が生まれてからは、どれほど帰りが遅くても、一度は寝顔を覗いてから自分の部屋へ行った。
この人と結婚してよかった。
そう思っていた時期が、確かにあった。
やがて夫の帰りが遅い日が少しずつ増えたが、瑠璃子は初め、仕事が立て込んでいるのだと思っていた。休日にも急に出かけるようになったものの、それだけなら珍しいことではなかった。
「今日は遅かったのですね」
と尋ねれば、夫は何をしていたのか話した。
誰と会っていたのか聞けば、人の名も答えた。
けれど、聞いていた予定と帰宅の時刻が合わないことがあった。役所の用事だと言っていたはずなのに、あとで話を聞くと、その間に別の用事が入っていることもあった。
一つなら気にしなかった。
二つでも、そういうこともあると思えた。
そういうことが、何度も重なった。
何かを見つけたわけではない。
ただ、十二年一緒に暮らしてきた。
夫がどのくらい仕事をする人なのか。急な用事が入ったとき、どんなふうに話すのか。休日には何をして過ごすのか。
それくらいは知っている。
ほかに、心を寄せている人がいるのではないか。
そう考えたのがいつだったのか、瑠璃子は後になっても思い出せなかった。
けれど、いったんそう思ってしまうと、その人のことを考えずにはいられなくなった。
若いのだろうか。
美しいのだろうか。
夫とはどこで知り合い、どんな話をするのだろう。
夫はその人と話しているとき、幸せなのだろうか。
そこまで考えて、瑠璃子は嫌になった。
娘を育て、同じ家で朝を迎え、何度も一緒に笑った。夫に大切にされてきたことを知っているし、自分もまた、この人を愛し、大切にしてきた。
それなのに今、自分は顔も知らないその人と自分を比べている。
夫がその人のどこを好きになったのかと考えている。
自分にはない何かを、その人は持っているのだろうか、と。
十一月のある晩、夫は夕食の時刻を過ぎても帰らなかった。
娘は先に食事を済ませ、翌日の支度があると言って自分の部屋へ戻った。
女中が、手をつけられないままの夫の膳を前にして、
「旦那様の分は、どういたしましょう」
と尋ねた。
「そのままにしておいて」
「お帰りになったら、温め直しますか」
「ええ。お願い」
瑠璃子は女中にそう言って居間へ行き、読みかけの本を開いた。
しばらくして、同じ一節を二度読んでいたことに気づいた。
読み直す気にもならず、本を膝の上に置いたまま座っていた。
今夜こそ訊こうと思った。
けれど、いったい何を訊けばよいのだろう。
私のほかに、心を寄せている方がいるのですか、と。
知りたいのは、そのことだけではなかった。
自分への気持ちは、もう以前とは違うのだろうか。これからどうするつもりなのか。
もし夫が、その人のことを口にしたら、そのあと自分は何と言うのだろう。
その方とはもう会わないでください、と頼むのか。
瑠璃子は膝の上の本に目を落とした。
夫が何と答えようとも、明日の朝には娘が学校へ行く。女中は朝食を運び、夫はいつもの席で新聞を読むだろう。
その食卓で、自分は夫とどんな顔をして向かい合うのだろう。
瑠璃子は本を閉じた。
玄関の向こうで物音がして、顔を上げた。
廊下の向こうで、女中の声がする。
瑠璃子が廊下へ出ると、夫が靴を脱いでいた。
「遅くなった」
夫は顔を上げ、瑠璃子を見た。
「すまなかった」
「お食事は?」
「ああ。まだなんだ」
夫は上着を脱いだ。
「では、すぐ温めてもらいます」
「お前はもう食べたのか」
「ええ。娘と先に」
「そうか」
夫は瑠璃子の顔を見た。
「頭痛はどうした」
瑠璃子はすぐには答えられなかった。
前の晩、少し頭が痛いと話したことを、夫は覚えていた。
「もう大丈夫です」
「そうか。よかった」
夫はいつもの夫だった。
そのことが、瑠璃子には腹立たしかった。
ほかに心を寄せている人がいるのなら、いっそ自分にも冷たければいい。
帰宅してもろくに口を利かず、娘にも関心を示さず、この家にいることさえ嫌そうにしてくれれば、憎むことだけを考えれば済む。
けれど、この人はそうではない。
瑠璃子の具合を気にかけ、娘のこともよく見ている。家へ帰れば食卓につき、仕事の話をし、新聞に面白い記事があれば瑠璃子にも見せた。
そして、ほかの人のところへ行く。
どちらも同じ夫なのだということが、瑠璃子にはどうしても分からなかった。
女中が温め直した膳を運んできた。
夫は食事をしながら、なぜ遅くなったのかを話した。
瑠璃子は向かいに座って聞きながら、どこまで本当なのだろうと思った。
それでも、その夜は何も訊かなかった。
翌朝、夫はいつもの場所で新聞を読んでいた。
娘が学校へ行く支度をしていると、
「今日は冷えるぞ」
と声をかけた。
「大丈夫よ」
「一枚着ていきなさい」
「お父様は心配しすぎなのよ」
娘が笑い、夫も笑った。
瑠璃子は二人を見ていた。
昨夜、夫がどこにいたのかは分からない。
けれど、娘を可愛がっていることは分かる。
その年の暮れになる頃には、もう疑いではなくなっていた。
それでも瑠璃子は、夫を問いたださなかった。
許したわけではなかった。娘がいて、家があり、何より夫と過ごした十二年があった。
夫がほかの人を愛したからといって、それまで夫から愛されてきたことまで嘘になるわけではなかった。
次に夫の帰りが遅くなった夜にも、何も訊かなかった。
その次にも。
いつしか夫も、瑠璃子が知っていることに気づいたのだろう。
それでも二人は、そのことを話さなかった。
そうして年を重ねた。
夫とその人との関係は、夫が亡くなるまで続いた。
*
「三枝さん?」
声をかけられ、瑠璃子は頁から顔を上げた。
静一郎がこちらを見ていた。
「すみません」
「いえ」
静一郎はノートに目を戻し、書き始めた。
瑠璃子は、開いたままの頁を見た。
あの頃、夫はこの本を読んでいた。
家へ帰らない夜が増えていた頃にも、この頁を開き、何かを書きつけていたのだ。
瑠璃子は、夫がどこにいるのかばかりを考えていた。
その同じ頃、夫が何を読み、どこで考えを改め、何をこの本に書き留めていたのかを、瑠璃子は知らなかった。
余白を埋めているのは、何度も見てきた夫の字だった。
瑠璃子はもう少しだけそこにいて、それから茶の盆を持って書庫を出た。
最後までい読みいただき、ありがとうございました。
Thank you for reading to the end.