昭和初期の東京を舞台にした創作小説です。
「あのころ、東京にいた」第二章 第七話【瑠璃子編:終話】
昭和六年八月九日(日)
それからも日曜日になると、静一郎は三枝家へ来た。
四月の終わりに始まった仕事は、夏になっても続いた。別の部屋にあった本も、箱に入ったままの本も一冊ずつ確認され、机の上に積まれる本は少しずつ減っていった。
八月に入る頃には、まだ手をつけていない本がどこにあるのか、瑠璃子にも分かるようになっていた。
その日、静一郎は棚の下段に残っていた本から仕事を始めた。
静一郎は眼鏡を掛け、いつもの椅子に座った。
瑠璃子は向かいの椅子で本を開いていたが、ときどき静一郎の手元を見た。
昼を過ぎてしばらくすると、残っている本は二冊になった。
静一郎が一冊を閉じ、目録帳へ書きつける。
「あと一冊?」
「こちらは、そうです。ただ、終わったあとでもう一度確認します」
「全部見るの?」
「はい。念のため、ひと通り」
最後に残っていた一冊を取り、静一郎は扉と奥付を確認した。途中で頁を何枚か戻し、それから目録帳へ書きつける。
鉛筆を置くと、棚の前へ行った。
端から順に本の背を見て、ときどき目録帳へ目を戻す。下の段まで確かめると、隣の棚へ移った。
途中で一冊を抜いたので、瑠璃子が尋ねた。
「何かあった?」
「いいえ。番号を確認しただけです」
静一郎は本を元へ戻した。
隣の部屋も確かめてから書庫へ戻ると、もう一度いつもの椅子に座り、目録帳を最初からめくっていった。途中で一度手を止め、前の頁へ戻って書き直す。
瑠璃子はそのあいだ、机の上を見ていた。
初めて静一郎が来た頃には、そこにも何冊も本が積まれていた。床には箱があり、別の部屋にもまだ手のついていない本があった。
今は、目録帳と筆記具があるだけだった。
静一郎が最後の頁まで確かめ、顔を上げた。
「これで全部です」
「終わったの?」
「はい」
静一郎は目録帳を瑠璃子の方へ向けた。
瑠璃子は本を閉じて席を立ち、机を回って静一郎のそばへ行った。
「巻の揃っていないものと、同じ本が二冊以上あるものには印をつけてあります。書き込みのある本も、分かるようにしてあります」
瑠璃子は静一郎の横から頁をめくっていった。
最後の頁には、総数が記されていた。
「千四百四十七冊……そんなにあったのね。難しい本もずいぶんあって、大変だったでしょう」
目録帳を閉じる。
「本当にありがとう」
「いえ」
目録を見る用はもう済んでいたが、瑠璃子は向かいの椅子へ戻らなかった。
静一郎が机の上に出していた筆記具を革鞄へしまっていくのを、すぐそばで見ていた。
「これは、こちらに置いていきます」
静一郎が目録帳を示した。
「ええ」
瑠璃子はそれを机の上へ置いた。
「では、来週は……」
「はい。全部終わりましたので」
「そうね」
静一郎は鞄の中を確かめていた。
瑠璃子はそのまま、静一郎のそばに立っていた。
やがて静一郎が顔を上げた。
「三枝さん?」
どうしてそこにいるのか、瑠璃子にも分からなかった。
「……橘さん」
「はい」
瑠璃子は少し身体を屈め、静一郎の唇に口づけた。
唇が触れたのは、ほんの短い間だった。
瑠璃子が身体を起こすと、静一郎はまだ椅子に座ったまま、何も言わずこちらを見ていた。眼鏡の奥の目が、少し見開かれていた。
「……ごめんなさい」
瑠璃子は目を逸らした。
「……でも、夫は私に優しかったの……」
その謝罪が誰に向けたものなのか、自分でも分からなかった。
最後までい読みいただき、ありがとうございました。
Thank you for reading to the end.