「あのころ、東京にいた」第一章 第一話【上京編】

あのころ、東京にいた

昭和初期の東京を舞台にした創作小説です。

「あのころ、東京にいた」第一章 第一話【上京編】

 

昭和六年三月三十日(月)

上野に着いたのは、朝の六時四十分を少し回ったころだった。

夜のあいだ窓の外を占めていた暗がりは、いつの間にか町へ変わっていた。列車が速度を落としはじめると、家並みのあいだに線路が増え、隣を走る線路の向こうにもまた線路があり、貨車や客車がところどころに停まっている。駅へ入ると汽車の音が屋根に反響し、富山を出たときとは聞こえ方まで違った。

列車が停まると、まだ眠そうな子どもを起こす声や、網棚から荷物を下ろす音が一度に重なり、通路はすぐに人で埋まった。静一郎も網棚から革鞄を下ろし、前の客が動くのを待って席を立った。ホームへ降りると、朝の空気は思ったより冷たかった。

上野駅は工事の途中にあり、人の肩越しに囲いや積まれた資材が見えた。駅員の声に沿うように人が流れ、その脇を荷を運ぶ者が行き来している。工事をしていることは分かったが、初めて来た静一郎には、普段の上野駅がどんな姿なのかは分からなかった。

大きな荷は先に送ってあった。手元にあるのは革鞄ひとつだった。

上着の内側から、折り畳んだ紙を取り出した。恩師から渡された住所には本郷の町名と番地が書かれており、その下に、市電なら本郷三丁目で降りるとよい、と別の筆で書き添えてある。下宿については先方にも話が通っているという。あとは、書かれた住所まで間違えずに行けばよかった。

駅員を見つけ、市電の乗り場を尋ねると、上野広小路までの道を教えられた。一度聞けば分かる程度の道順だったが、静一郎は最後まで聞いてから礼を言った。

駅を出ると、まだ朝の早い時刻にもかかわらず、町にはすでに人が多かった。店の戸を開ける者がいれば、その前を荷車が通り、少し先では別の店が品物を運び出している。人の歩く速さというより、同じ場所で同時に動いているものの数が、富山とは違うのだろうと思った。

見物をするつもりで来たわけではない。静一郎は教えられた方へ歩き、停留場の表示と行先を確かめて市電に乗った。

窓の外を見ているうちに、いくつかの停留場を過ぎた。どこをどう曲がっているのかまでは分からなかったが、停留場の名を二つ三つ覚えておけば、おおよその見当はつきそうだった。

本郷三丁目の名を見落とさないようにしていると、ほどなく目的の停留場に着いた。

本郷の下宿へ着いたころには、八時を回っていた。

教えられた番地まで来ると、静一郎は道の向かいから表札を確かめた。住所は合っている。格子戸を開けて声をかけると、奥から返事があり、四十を少し過ぎたほどの女が出てきた。

「橘と申します。本日からお世話になります」

革鞄を脇へ置いて頭を下げると、女はすぐに「ああ、橘さん」と言った。

「伺ってますよ。遠いところを大変でしたね。昨夜は汽車でしょう」

「はい」

「まあ、お上がりなさい。立ったままでは何ですから」

「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

靴を脱いで上がるあいだに、女主人は二階の部屋が用意してあることや、食事の時刻について話した。静一郎が聞きながら順に覚えていると、廊下の奥へ向かって「綾」と声をかける。

少しして返事があり、台所の方から若い娘が出てきた。襷をかけ、濡れた手を布巾で拭いている。

「こちら、今日から二階に入る橘さん。帝大へ通うんですって。橘さん、この子は綾。うちのことは大抵分かってますから、何かあったら聞いてくださいな」

綾は頭を下げた。

「高橋綾です。よろしくお願いいたします」

「橘静一郎です。こちらこそ、よろしくお願いします」

綾がもう一度軽く頭を下げる。その後ろから湯の沸く音が聞こえ、女主人が「ああ、いけない」と台所の方を振り返った。

「綾、そっちを見ておいで。橘さんは私がご案内するから」

「はい」

綾は台所へ戻っていった。

二階の奥にある六畳ほどの部屋には、文机と小さな棚があり、窓の外には隣家の屋根が見えた。先に送った荷の一つも、部屋の隅に置かれている。畳は新しくはなかったが、きちんと掃除されていた。

「お疲れでしょうから、荷物はあとでいいですよ。まず少しお休みなさい」

昨夜は二時間眠ったかどうかだった。

「そうします。ありがとうございます」

「何かあったら、下にいますから」

女主人が階段を下りていくと、静一郎は革鞄を文机の脇へ置き、上着を脱いだ。荷物を開けるのは起きてからでいい。少し休むだけのつもりで横になったが、次に目を開けたときには、窓から入る光がすっかり高くなっていた。

時計を見ると、もう昼近い。思っていたより長く眠っていたらしい。

起きて階下へ降り、洗面を済ませると、女主人が静一郎の姿を見て、

「少しは眠れましたか」

と訊いた。

「はい。よく眠りました」

「それならよかった。何か召し上がるでしょう」

「ありがとうございます。いただきます」

遅い朝食とも昼食ともつかない簡単な膳を済ませる頃には、夜行の疲れもだいぶ抜けていた。

午後はまだ何も予定がなかったので、静一郎は大学までの道を一度確かめておくことにした。

*

玄関で靴を履いていると、朝に会った綾が廊下の向こうから来た。

「お出かけですか」

「大学まで行ってみようと思います」

「今日は何かあるんですか」

「いいえ。道を確認しておこうと思って」

綾は一度瞬きをしてから、「ここからなら、そう遠くありませんよ」と言った。

「本郷通りまで出れば分かります。学生さんもたくさん歩いてますから」

「そうですか。ありがとうございます」

立ち上がった静一郎を、綾が玄関先まで見送った。

「行ってらっしゃいませ」

「行ってきます」

朝は市電の窓越しに見ただけだった本郷の町も、歩けば別のものが目についた。学生服の青年が何人も行き交い、本屋の前では二、三人が店頭の本を覗き込んでいる。飲食店の暖簾の脇には値段を書いた札が下がり、その前を市電が通ると、話し声が一度車輪の音に消された。

大学までの道には本屋が何軒もあり、法律書らしいものを多く並べた店もあった。いずれ必要になるだろうと思いながら先へ進むと、やがて本郷通りの先に赤い門が見えた。

門の向こうには建物が続き、出入りする学生もいる。静一郎は下宿から歩いてきた道を頭の中でもう一度辿った。本郷三丁目から来れば迷うところはほとんどない。所要時間も分かった。

帰りには同じ道をそのまま戻らず、途中で一本横へ入った。少し遠回りにはなったが、最初に見つけた本屋の裏へ出る道も分かった。

まだ日の高いうちに下宿へ戻ると、綾が廊下を拭いていた。静一郎の足音に気づいて顔を上げる。

「お帰りなさいませ」

「ただいま戻りました」

「大学、分かりましたか」

「はい。あの道なら迷わずに行けます」

綾は雑巾を持ったまま少し静一郎を見て、それから「よかったです」と笑った。

*

夕食のあと、部屋へ戻って荷物を少し整理した。必要な書類は文机の左側へ置き、まだ必要のないものは行李へ戻した。本は棚へ収めたが、全部並べても半分も埋まらなかった。

革鞄の内側には、葉書が二枚入っていた。

下宿を紹介してくれた恩師には、東京へ着いたら知らせるつもりでいた。伯母にも、無事に着いたことを知らせておかなければならない。

文机の前に座り、万年筆を取った。

恩師への葉書には、

本日、無事上京いたしました。

と書き、紹介された下宿へ滞りなく入ったことと、その礼を続けた。大学まで歩いて道を確かめたことも、一行だけ添えた。

伯母には、東京へ無事着き、下宿にも入ったことを簡単に知らせた。

二枚の宛名を書き終えたころには、窓の外はもう暗くなっていた。

少し離れた通りを市電が通るたび、車輪の音が部屋まで届いた。夜になればもっと静かになるものと思っていたが、人の声や車輪の音はまだ時折聞こえてくる。

灯りを消して横になってからも、市電の音はしばらく聞こえていた。

最後までい読みいただき、ありがとうございました。

Thank you for reading to the end.

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