昭和初期の東京を舞台にした創作小説です。
「あのころ、東京にいた」第二章 第三話【瑠璃子編】
昭和六年五月十日(日)
その次の日曜日、静一郎が来る前に、瑠璃子は一冊の本を書庫の机へ置いた。
前の日、別の部屋に積んであった本を何冊か動かしたときに見つけたものだった。開いた頁の余白に、夫の字がある。
それだけなら、今までにも何冊かあった。
けれど先週、静一郎が夫の書き込みを読んでから、瑠璃子にはそれが以前とは少し違って見えた。
何が書いてあるのだろう。
そう思って、机へ置いた。
やがて静一郎が来ると、瑠璃子はいつものように書庫まで案内した。
静一郎は革鞄を置き、ノートを取り出したところで、机の端にある本を見た。
「こちらもですか」
「ええ」
瑠璃子は本を開いた。
「ここに、主人の書き込みがあるんです。見ていただけます?」
「はい」
静一郎は椅子に座り、本を手元へ寄せた。本文を何行か読んでから、余白の文字へ目を移す。
瑠璃子は机の横に立って、その手元を見ていた。
「前に書いたものへ、あとから書き足していますね」
「また?」
「はい」
静一郎が二か所を指した。
「こちらが先だと思います。そのあと、別の本か何かを読んで、考えが変わったのかもしれません」
「分かるんですか?」
「全部は分かりません」
静一郎は前後の頁をめくった。
「ただ、この部分では、最初に書いたことへ自分で反対しています」
瑠璃子は笑った。
「本の中でも、そんなことをしていたのね」
静一郎が顔を上げた。
「そんなこと?」
「主人は、自分が間違っていたと分かると、意地を張らない人でした」
瑠璃子は少し笑った。
「『ああ、そうか』って。案外あっさり直すんです」
静一郎は夫の文字へ目を戻した。
「では、同じですね」
「何が?」
「ここでも、違うと思ったから直したんでしょう」
瑠璃子は静一郎を見た。
もう次の書き込みを読んでいる。
「そうね」
瑠璃子も頁へ目を戻した。
夫が亡くなって三年になる。
それなのに、本の中には、まだ考えを変えたり、自分に反対したりしている夫がいた。
その日の午後にも、書き込みのある本が一冊出てきた。
今度は静一郎の方から、
「こちらにもあります」
と瑠璃子を呼んだ。
書庫へ行くと、開かれた本が机の端に置かれていた。
以前なら、主人の字ですね、と確認するだけだった。
今は、何について書いたのか、どこを訂正したのか、何に疑問を持ったのかまで尋ねることができる。静一郎は読める範囲で、それを一つずつ説明した。
もちろん、すべてが分かるわけではない。
「これは前後を読まないと分かりません」
そう言うこともあった。
分からないものは分からないと言った。
瑠璃子には、その方が聞きやすかった。
*
翌週にも、同じことがあった。
書き込みのある本が見つかると、瑠璃子は書庫へ行った。
「橘さん、これは?」
静一郎が読む。
別の本が出れば、
「ここは、何て書いてあるの?」
と訊いた。
いつからか、書き込みのある本は、目録をつけたあとすぐ棚へ戻さず、机の端へ置かれるようになった。
「ここでは、さっきとは反対のことを書いています」
静一郎が言った。
瑠璃子は机の横で頁を見た。
「どうして?」
「この本の著者の考え方に、納得していなかったんだと思います」
「主人が?」
「たぶん」
静一郎はもう一度文章へ目を落とした。
「ここに理由があります」
瑠璃子が少し身体を寄せた。
静一郎は、夫が書いた短い文章を区切りながら説明した。難しいところでは言葉を替え、それでも瑠璃子が分からずにいると、別の言い方をした。
――その先は私には難しいわ。
昔、夫にそう言ったことがある。
――今のところまでは分かっただろう。
そう言って夫は笑い、また話を続けた。
瑠璃子は頁を見た。
目の前にあるのは、昔の食卓ではない。
机の向こうにいるのは、黒い学生服の静一郎だった。
「ですから、ここまでは同じですが、この先が違います」
瑠璃子が返事をしないでいると、静一郎はそこで言葉を切った。
顔を上げると、こちらを見ていた。
「続けてもよろしいですか」
「あ……ええ。ごめんなさい」
「いえ」
静一郎は何も訊かず、頁へ目を戻した。
瑠璃子も本を見た。
今の説明を、どこから聞いていなかったのか、自分でも分からなかった。
*
五月二十四日の日曜日。
昼を過ぎた頃、静一郎は一冊の本を窓際まで持っていった。
瑠璃子が茶を持って書庫へ入ったとき、その姿が目に入った。
「どうしたのですか?」
静一郎が振り返った。
「字が少し読みにくくて」
頁を窓の方へ向けている。
瑠璃子は盆を置き、そばへ行った。余白には、夫の小さな字が何行も続いている。
「主人の字ね」
「はい。ただ、かなり細かいです」
静一郎はまた頁へ顔を近づけた。
瑠璃子もその横から同じところを覗き込む。
「どこ?」
「ここです」
静一郎が頁を指した。
瑠璃子も顔を寄せる。
「これ?」
「いえ、その下です」
「こっち?」
「はい」
静一郎はさらに本を目の近くへ持ってきた。
頁から目を上げると、すぐそばに静一郎の横顔があった。
瑠璃子はいつの間にか、自分の方からそこまで身を寄せていたらしい。
わずかに身体を引いた。
「三枝さん?」
「……橘さん」
「はい」
「目が悪いの?」
静一郎は少し考えた。
「遠くは、あまりよく見えません」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「本を見るとき、ずいぶん顔を近づけるから」
静一郎は手にしている本を見た。
「これは字が小さいので」
「今日だけじゃありませんよ」
静一郎が瑠璃子を見る。
「大学では困らないの?」
「前の方に座れば、だいたい見えます」
「だいたい?」
「はい」
瑠璃子は眉を寄せた。
「眼鏡は?」
「持っていません」
「一度も?」
「はい」
それだけ答えると、静一郎はまた頁へ目を落とした。
「この字ですが」
もう夫の書き込みへ戻っている。
瑠璃子は返事をせず、その横顔を見た。
「おそらく、ここは前の頁の続きです」
静一郎はそう言って、本をもう一度目の近くへ寄せた。
瑠璃子はそれ以上、何も言わなかった。
静一郎は夫の書き込みを読み終えると、またいつもの作業へ戻った。棚から本を出し、扉を確かめ、ノートへ記していく。
それから夕方まで、仕事はいつも通りに続いた。
その日の分を終えると、静一郎は机の上を片づけた。
「今日はここまでにします」
「ええ。ありがとうございました」
ノートと筆記具を革鞄へしまい、玄関へ向かう。
瑠璃子もそこまで見送った。
「では、来週も同じ頃に伺います」
「お願いします」
静一郎は頭を下げ、門を出ていった。
姿が見えなくなってから、瑠璃子は茶の盆を取りに書庫へ戻った。
窓際に、先ほどの本が残っている。
静一郎が読みにくいと言っていた頁を開くと、夫の字が余白に細かく続いていた。
瑠璃子はしばらくそれを見た。
先ほど聞いた説明を思い返そうとしたが、先に浮かんだのは、夫が何を書いていたかではなかった。
頁へ顔を近づけていた静一郎の横顔だった。
――前の方に座れば、だいたい見えます。
「だいたい、ね」
瑠璃子は小さく言った。
眼鏡も持たず、それで済ませているらしい。
もう一度、余白の細かな字を見てから、本を閉じた。
最後までい読みいただき、ありがとうございました。
Thank you for reading to the end.