「あのころ、東京にいた」第二章 第五話【瑠璃子編】

昭和初期の東京を舞台にした創作小説です。

「あのころ、東京にいた」第二章 第五話【瑠璃子編】

 

昭和六年六月八日(月)

翌日の午前、瑠璃子は書庫へ入った。

前の日、静一郎が帰ったあとも机の端へ置いたままにしていた本がある。椅子に座って開くと、昨日見つけた一行はすぐに出てきた。

妻には、何の落度もない。

瑠璃子はそこをもう一度読んだ。

その前後には、本文に沿って細かな書き込みが続いている。

そのまま頁を送っていくと、数頁先でまた夫の字が目に入った。

余白に、一行だけ書かれている。

改めるべきは、自分なのだろう。

瑠璃子は頁をめくる手を止めた。

「……分かっていたのね」

改めるべきだと思っていたのなら、どうして。

夫が自分の知らない誰かと逢い続けていたことを、瑠璃子は知っている。翌年も、その次の年も続き、結局、夫が亡くなるまで変わらなかった。

本を閉じた。

「勝手な人」

口にしてから、瑠璃子はしばらくその表紙を見ていた。

自分でも驚くほど、悲しくはなかった。

*

昭和六年六月十四日(日)

静一郎が来て仕事を始めてしばらくすると、瑠璃子は例の本を持って書庫へ入った。

眼鏡を掛けた静一郎は、棚から抜いた本を机の上で開き、扉と奥付を確かめているところだった。

「橘さん」

「はい」

「この前の本に、もう一つあったの」

瑠璃子が本を差し出すと、静一郎は受け取った。

「ご主人の書き込みですか?」

「ええ。少し先の頁」

静一郎が少し先へ頁を送ると、その一行が出てきた。

改めるべきは、自分なのだろう。

静一郎は前後の頁も確かめた。

「先週の書き込みと、時期は近いようですね」

「そうでしょう?」

「はい」

瑠璃子は向かいの椅子へ座った。静一郎がもう一度その頁を見ている。

「……主人には、ほかに心を寄せていた人がいたの」

静一郎が顔を上げた。

「そうだったんですか」

「ええ。私にも分かっていたのよ」

瑠璃子は本の端に手を置いた。

「主人も、私に気づかれていることは分かっていたと思う。でも、そのことについて話したことは一度もなかったの」

「お互いに、ですか」

「ええ」

「主人とその人とは、主人が亡くなるまで続いていたわ」

静一郎はそのまま聞いていた。

「だから、これを読んで腹が立ったの。分かっていたなら、どうしてやめなかったのかしらって」

瑠璃子は開いた頁へ目を落とした。

「勝手な人でしょう」

少しして、瑠璃子はまた口を開いた。

「でもね」

静一郎が顔を上げた。

「夫は私に優しかったの。家ではいつも通りだったわ。私の具合が悪ければ気にしてくれたし、娘のことも大事にしていた。だから、余計に分からなかったの」

瑠璃子は夫の書いた一行を見た。

「嫌いになれれば、もっと簡単だったのかもしれないわね。でも、そういう人でもなかったの」

「分かっていても、やめられなかったのかしら。ねえ?」

「それは、私には分かりません」

瑠璃子は顔を上げた。

「分からない?」

「はい。ご主人がその方をどう思っていたのかも、私は知りませんので」

もう少し、違うことを言ってくれてもいいのにと思った。

瑠璃子は本へ目を戻した。少しして、また尋ねた。

「橘さんは、分かっていても、そのままにしておくことってある?」

静一郎は顔を上げた。

「何についてでしょうか」

「……何でもないの」

静一郎はそれ以上は訊かなかった。

瑠璃子が机の上の本を見ているうちに、静一郎は途中になっていた一冊の確認を終え、目録へ書きつけてから次の本を手に取った。

「ねえ、橘さん」

「はい」

「自分が改めるべきだと分かっていても、改められないことってあると思う?」

静一郎は少し考えた。

「あると思います」

「あるの?」

「はい。分かることと、実際にできることは別だと思いますから」

「……そう」

瑠璃子は夫の本を見た。

「じゃあ、仕方がないことなのかしら」

「仕方がない、とは違うと思います」

瑠璃子は顔を上げた。

静一郎はもう一度本を開き、先ほど途中まで確認していた頁を探していた。

しばらくして、瑠璃子は夫の本を手に取り、椅子から立った。

「仕事の邪魔をしてしまったわね」

「いいえ」

「その本、もういいの?」

「はい。確認しましたので」

「では、持っていくわ」

瑠璃子は本を抱えて書庫を出た。

廊下へ出ると、昼の支度をしている女中の声が奥から聞こえた。瑠璃子は本を自分の部屋へ置き、それから台所へ寄った。

昼まで、書庫へは戻らなかった。

*

午後、瑠璃子が茶を持って書庫へ入ると、静一郎は午前とは別の棚を調べていた。

棚の中ほどに並んだ本の背を順に見て、一冊抜き出した。以前なら、背文字を読むためにもう少し棚へ顔を近づけていた。

瑠璃子は盆を机へ置いた。

「眼鏡、大学でも掛けているの?」

静一郎が本を机へ置いた。

「はい」

「どう?」

「よく見えます」

瑠璃子は少し笑った。

「それは聞いたわ」

静一郎が瑠璃子を見る。

「大学ではどうなの?」

静一郎は椅子へ戻りながら答えた。

「黒板はかなり見やすくなりました」

「じゃあ、もう一番前に座らなくてもいいのね」

「はい。前でなくても読めます」

「よかった」

瑠璃子は向かいへ座らず、机の脇に立ったまま湯呑を静一郎の方へ寄せた。

「大学で、誰か何か言わなかった?」

「眼鏡のことですか」

「ええ」

静一郎は少し考えた。

「友人に、よく見えるようになったか聞かれました」

瑠璃子は思わず笑った。

「それだけ?」

「はい」

「似合うとか、そういうことは?」

「言われていません」

「そう」

静一郎は湯呑を取り、一口飲んだ。

「お友達とはよく一緒にいるの?」

「講義が同じなので、一緒になることが多いです」

「どんな方なの?」

静一郎は少し考えた。

「話しやすい人です」

「そう」

瑠璃子は盆を持ち上げかけて、もう一度置いた。

「大学はどう? もう慣れた?」

「だいぶ慣れました」

「楽しい?」

今度は、静一郎がすぐには答えなかった。

「面白いです」

「楽しい、じゃなくて?」

「はい。まだ知らないことが多いので」

瑠璃子は笑った。

「橘さんらしい答えね」

静一郎は瑠璃子を見たが、何も訊かなかった。

「お茶、冷める前に飲んでね」

「ありがとうございます」

瑠璃子は盆を持って書庫を出た。

静一郎の友人はどんな顔をしているのだろうと考えながら、瑠璃子は自分の部屋へ戻った。

最後までい読みいただき、ありがとうございました。

Thank you for reading to the end.

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