昭和初期の東京を舞台にした創作小説です。
「あのころ、東京にいた」第三章 第三話【久世夫妻編】
昭和六年七月二十六日(日)
午後三時を過ぎた頃、瑠璃子が一枚の名刺を持って書庫へ来た。
「久世さんから」
静一郎は受け取った。
裏に鉛筆で、銀座西五丁目の住所と、五時半頃、と書いてある。その下に、「都合がよければ」とあった。
「今日ですか」
「ええ。昨日、届けてくださったの。渡すのを忘れていました」
静一郎は名刺を見直した。
「何のご用でしょう」
「さあ。お店を一軒、手がけていらっしゃるとはおっしゃっていたけれど」
それなら、先週見ていた本と関係があるのかもしれなかった。
静一郎は名刺を机の端へ置いた。
「五時まではこちらを続けます」
「久世さんも、そう思ってその時間になさったんじゃない?」
瑠璃子はそう言って書庫を出ていった。
五時少し前にその日の分を終え、静一郎は名刺を学生服の内側へしまった。
銀座西五丁目の店へ着いたのは、五時半を少し回った頃だった。
婦人洋品を扱う店だった。
通りに面して大きな硝子窓があり、白い夏帽子が一つ、少し高い台の上に置かれている。その斜め下に小さな鞄があり、奥には淡い色の日傘が一本だけ立ててある。
ほかにも商品はあるらしいが、窓の中へ並べられているものは思ったより少ない。
静一郎は店の前で立ち止まった。
前を通った二人連れの女が、帽子を見て足を緩めた。一人が何か言い、もう一人も窓へ近づいた。
「来たんだね」
声の方を見ると、貞臣が店の入口から出てきた。
薄い色の夏服姿で、手には帽子を持っている。
「こんにちは」
「こんにちは。急に呼んですまなかった」
「三枝さんから今日伺いました」
「そうか。間に合ってよかった」
貞臣は静一郎の横へ立ち、飾窓を見た。
「この前の本、覚えている?」
「はい」
「ちょうどこういう仕事をしていたんだ。今日で一通り終わった」
静一郎はもう一度、窓の中を見た。
「本に載っていたものより、ずいぶん物が少ないですね」
貞臣が笑った。
「そこからか」
「違いましたか」
「いや。合っているよ」
店の中から紗代子が出てきた。
今日は洋装だった。明るい色の帽子をかぶり、手には小さな扇を持っていた。
「橘さん。いらしたのね」
「こんにちは」
「貞臣から聞いていた?」
「先ほど説明していただきました」
紗代子は飾窓の前へ来ると、硝子ではなく通りの方を見た。
「さっきから、ずいぶん見てくださるのよ」
先ほどの二人連れは、まだ帽子を見ていた。
一人が店の入口へ目をやったが、中へは入らず、そのまま二人で歩き出した。
貞臣もその後ろ姿を見た。
「見る人は増えた」
「でも、入らないわね」
紗代子が言った。
「全部じゃない」
「もちろん。でも、さっきから何人かそうでしょう」
貞臣は腕を組まず、帽子を持った手を下ろしたまま店の前を見ていた。
「店主も同じことを言っていた。窓の評判は悪くないそうだ」
「それなら、窓は悪くないんじゃない?」
「その先だな」
二人の話を聞きながら、静一郎は通りへ目を向けた。
日曜の夕方で、人通りは多かった。すぐに立ち止まる者もいれば、歩きながら横目で見る者もいる。男はほとんど通り過ぎたが、女は何人か足を緩めた。
しばらくして、洋装の若い女が一人、窓へ近づいた。
若い女は帽子を見て、次に鞄へ目を移した。一度離れてから入口へ二、三歩進み、そこで店の中を見た。
静一郎もそちらを見た。
入口から少し入ったところに、店員らしい女が立っている。奥では年嵩の婦人が腰掛け、別の店員が商品を見せている。
若い女はしばらく店内を見たあと、入らずに歩き去った。
紗代子が小さく扇を動かした。
「また」
静一郎は答えなかった。
その後にも二人、似た動きをした。どちらも窓までは来たが、そのうち一人は入口へ行って中を覗いただけで、やはり入らなかった。
貞臣が静一郎を見た。
「どう?」
七月十二日にも同じように聞かれたことを思い出した。
静一郎は店の入口を見た。
「入口まで来た人は、みんな同じところを見ています」
貞臣が通りへ目を戻した。
「どこ?」
「中です」
「それは入る前だから当然じゃない?」
紗代子が言った。
「店の中全部ではありません」
静一郎は入口を指さすことはせず、視線だけを向けた。
「最初に、あの方を見ています」
入口近くに立っている店員だった。
ちょうど別の女が窓の前へ来た。
三人とも黙って見た。
女は飾窓を一度見てから、入口へ近づいた。
そのとき、店員が客に気づいて一歩前へ出た。
女は軽く頭を下げたが、中へは入らず、そのまま離れていった。
紗代子が貞臣を見た。
「なるほど」
貞臣はまだ入口を見ていた。
「迎えに出ているんだ」
「ええ」
「丁寧にしているつもりなんでしょうね」
紗代子は言った。
貞臣が静一郎を見た。
「君は、あれが嫌なの?」
「私ですか」
「入ろうと思っているとき、ああして待たれていたら」
静一郎は少し考えた。
「用があれば入ります」
紗代子が笑った。
「橘さんはそうでしょうね」
「違うんですか」
「違う人もいるわ」
紗代子は、先ほど立ち去った女の方を見た。
「まだ買うと決めていない人には、入った途端に何か尋ねられそうに見えるのよ」
静一郎も店内を見た。
「見るだけでは、入りにくいということですか」
「そういう人もいるでしょうね」
貞臣は入口へ歩いていった。
店員へ何か話し、奥を指した。店員は頷き、立っていた場所を離れた。
次に貞臣は入口脇に置かれていた細い陳列台を見た。店の主人を呼び、二人で位置を少し変えた。
静一郎はその様子を見ていた。
紗代子が隣で言った。
「あの人、こういうことになると早いの」
「先に決めていたんですか」
「いいえ。今決めたのよ」
入口近くに人が立たなくなると、店の中がさっきより奥まで見えた。
陳列台も少し内側へ移されたため、入口の幅そのものは変わっていないのに、広くなったように見えた。
貞臣が戻ってきた。
「少し見てみよう」
それから十分ほど、三人は店の前にいた。
窓を見る人数が急に変わるわけではなかった。
一人の女が帽子を見て、そのまま立ち去った。
次の二人連れも入らなかった。
そのあと、母娘らしい二人が窓の前で話したあと、入口から中へ入った。
貞臣はそれを見ても何も言わなかった。
紗代子も同じだった。
少しして、若い女が一人、鞄を見てから店へ入った。
「二組」
紗代子が言った。
「まだ二組だよ」
「さっきよりいいでしょう」
「もう少し見ないと分からない」
貞臣はそう言いながら、少し笑っていた。
店の主人が中から出てきた。
「久世さん、ちょっとよろしいですか」
「はい」
貞臣は静一郎へ顔を向けた。
「少し待っていてくれる?」
「はい」
主人と二人で店の奥へ入っていった。
紗代子は扇を閉じた。
「橘さん」
「はい」
「金曜の夕方、お暇?」
静一郎は紗代子を見た。
「今度の金曜ですか」
「ええ」
「何時頃でしょう」
「六時を過ぎた頃」
紗代子は手提げから小さな紙を出し、鉛筆で何かを書いて静一郎へ渡した。銀座の住所だった。
「ここへいらっしゃい」
「何があるんですか」
「人が集まるの」
静一郎は紙を見た。
「どういう集まりですか」
「画家も来るし、文章を書く方もいるわ。お店をやっている方もいるし、何をしているのかよく分からない方もいる」
「よく分からない方も呼ばれるんですか」
紗代子が笑った。
「本人は分かっていると思うわ」
静一郎はもう一度住所を見た。
「私が伺ってもいいんですか」
「だからお渡ししているの」
静一郎はすぐには答えなかった。
「どういうところなのか、まだよく分かりません」
「そうね」
紗代子はあっさり認めた。
「でも、分からないなら、ご自分で見てみればいいでしょう」
静一郎は紙に書かれた住所へ目を戻した。
しばらく考えてから、
「……では、伺ってみます」
と言った。
紗代子が笑った。
「ええ。いらっしゃい。きっと、あなたにはいいお勉強になるわ」
静一郎は紙から顔を上げた。
「何の勉強ですか」
「それは、見てお決めになったら?」
店の中から貞臣が戻ってきた。
「何の話?」
「金曜のお話」
「ああ」
貞臣はそれだけで分かったらしい。
「来るの?」
「はい」
「そう」
貞臣は店の前をもう一度見た。
先ほど店へ入った母娘らしい二人が、紙包みを持って出てきた。
貞臣はそれを見送った。
「今日はありがとう」
「私は見ていただけです」
「それで十分だよ」
静一郎は頭を下げた。
紗代子から渡された紙を学生服の内側へしまった。
店の前では、また別の女が飾窓の帽子を見ていた。
最後までい読みいただき、ありがとうございました。
Thank you for reading to the end.